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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-09-19 11:40:22 (2 ヒット)
メッセージ

「良き羊飼い」ヨハネ9:35〜10:21
ヨハネの福音書から、イエスがご自分の性質を表すものとして語られたことを学んでいます。「永遠の命に至る水」「命のパン」「世の光」、今回は「良き羊飼い」です。この箇所はパリサイ人に対し、「“見える”と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言われ、その文脈から「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼である」と続きます。真理が見えていない、語られても受け入れようとしない頑なな人々に対し、イエスはご自身がどのような者であるか、比喩を用いて良い牧者=良い指導者であることを話されました。現代の日本・淡路に住む私達には羊飼いになじみがないのですが、「羊の門は、羊に命を得させ、豊かに得させる」羊は遠くが見えないので集団になって羊飼いについて行きますが、水飲み場や牧草地に羊飼いが先頭に立って導きます。汚れた水を飲んだり、同じ所にとどまって草を食いつくすと、羊は病気になったり飢えて死んでしまいます。羊飼いは羊の群れの健康のために、行き届いた管理と計画的な指導が必要となります。また危険な場所や自然の脅威を避け、羊の囲いとなり害獣から命がけで守るため、羊たちは夜も安心して寝ることができます。「良い羊飼いは、羊を知り、羊もまたわたしを知っている。わたしは羊のために命を捨てる。」イエスは十字架上でご自分の命を捨てられ、命がけで私達を死と罪から救い出して下さいました。私達の必要をご存知で、いつも気にかけて下さり、危険から守り、命を得るために導いて下さるお方です。多くの声に迷う時、神の前に静まり耳を澄ませ、良き羊飼いなる主の御声を聞き分け、御心を知ることができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-09-04 14:55:15 (16 ヒット)
メッセージ

「世の光」ヨハネ8章12節
仮庵の祭りは水のお祭りでしたが「光」のお祭りでもありました。出エジプトでイスラエルを導いた火の柱を想起させる黄金の燭台が、神殿とエルサレムの市街を照らしたのです。イスラエルの民を奴隷と苦役から、荒野の40年を経て約束の地に導いた神の恵みを記念する祭り。その祭りの終盤で「わたしが世の光である」とイエスは宣言されたのです。この世界の始まりは秩序のない混沌とした状態から「光よ、あれ」と神が言われ、天地が創られました。イエスは世の初めから神と共におられ、人の邪悪な心や不道徳や私達を取り囲む罪を照らし、霊的な闇から死を打ち破る真の光です。「闇はこれに勝つことはできなかった」人の本質的課題である罪と死という問題、闇の中に、いのちであり希望であり未来である光としてキリストはおられるのです。ヨハネの黙示録では、神の都には太陽も月もないと書かれています。永遠なるお方は私達を照らし続け、私達はキリストの光をいただきながら歩むことができるのです。ヨハネ9章では生まれながら目の見えない人がイエスにいやされた奇蹟が記されています。彼の目が開かれたことによって、多くの人の声が聞こえます。それらの声は自分につらく当たり、人の罪を責め立てるといった、人々の心の闇が垣間見えるものでした。偽りの声の中にあって、イエスの声は真実を語られ、目の開かれた人は羊が羊飼いの声を聞き分けるように、イエスの語られる言葉に光を見出しました。信仰とは神の言葉に心をふるわせ共鳴し、神の声に心から応答することです。先行きの見えない世界、闇の中にあっても、真の光から目を離さず、神の声に従って歩みましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-29 10:02:54 (17 ヒット)
メッセージ

いのちのパン」ヨハネ6:32〜51
五千人以上の群衆にパンを食べさせた奇蹟の後、多くのユダヤ人達は「この人こそ、世に来るべき預言者(申命記の中でモーセが遣わすと言った)だ」と、イエスについて来ようとしました。しかしその動機は「この人と一緒にいたら食いはぐれぐれない」というものであることを見抜いたイエスは、「朽ちない食物のために働くがよい」「天からのまことのパンを与えるのは、私の父である」「神のパンは天から下ってきて、この世に命を与える」と話されました。「私が命のパンである」というのは、神ご自身を表す『エゴーエイミー(私はあるものだ)』と同じ宣言でした。さらに「私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」という言葉に弟子達の多くは「これはひどい言葉だ」と去って行きました。残った弟子達もイエスの言葉を全て理解していたわけではありません。私達も救い主のことを全部理解したから洗礼を受けたわけではありません。むしろ大半の人達は聖書のことを十分に知らないまま洗礼を受け、信仰生活を送る中で教えられ、真理を知る喜びを味わっていくのです。理解に先立って「イエスの言葉を信じ」従って行ったのです。イエスは、いのちのパンを食する者は、いつまでも生きると繰り返し語られます。イエスが私達に与えて下さるものは、終わりの日のよみがえりです。十字架から復活されたお方を信じることによって、キリストが再び来られる時、私達も朽ちない復活の体となり、永遠の命を得ることができるのです。「こんな話聞いていられない」と離れて行くのではなく、今日理解できなくても、理解できるその時までこの大切な真理を心に留め、なおこの道にとどまることができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-26 10:12:46 (17 ヒット)
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「永遠の命に至る水」ヨハネ4:1〜26
当時のユダヤ人はサマリヤを異邦人として忌み嫌い、遠回りになってもサマリヤを迂回するのが一般的だったようです。ですからイエスがわざわざサマリヤを通ったことには特別な神のご意思があったということです。後に使徒の時代にもサマリヤにてリバイバルが起こり多くの人々が救われますが、すでにイエス様は福音の種を蒔かれていたのです。大いなる救いの計画の端緒はイエスが「水を飲ませてください」と一人のサマリヤの女性にお願いするところから始まります。女性はイエスとのやり取りの中で自分の心の奥深いところにある真理の飢え渇きに気づかされ、イエスをキリスト(救い主)と信じるのです。ヨハネの福音書3章に登場するニコデモは立派な人でした。イエスを訪問した際、真理についてうまく理解出来ず、聖霊の満たしを受け取ることができませんでした。しかしサマリヤの貧しい、軽んじられていた女性のもとに福音は届けられました。私達は立場や職業などで人を推し量るところがありますが、神様はそういった人間の作った価値観(色眼鏡)で判断せず、隔てなく恵みを与えられるお方です。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう。」聖書において「水」は神の啓示、神の御言葉、神の御霊を指しています。渇くことがない生けるいのちの水は、私達の内側から尽きることのない喜びを湧き出させる聖霊の働きを指しています。聖霊に満たされた人は問題がなくなるとか、痛みに鈍感になるというわけではありません。しかし、ひた向きに前進していく力を、生ける神により内側から与えられるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-08-19 11:48:45 (21 ヒット)
メッセージ

「遺言」創世記50章
ヨセフは父ヤコブと家族をエジプトに招き、共に暮らすようになります。やがて父ヤコブは死に際し子どもたちを祝福し、先祖の墓に埋葬するように遺言し、地上の生を全うしました。父ヤコブの死に兄達は動揺しました。抑止力となっていた父の存在が無くなることでヨセフは自分達に復讐するのではないかと恐れたのです。再会してから20年近く経っていましたが、自分達がヨセフに対し行った悪の大きさを思えば許されるはずがないと思い込んだのです。兄達は人を介し「父ヤコブが死ぬ前に兄達を許すように言った」と告げます。真偽のほどは確かでありませんが、それを聞いたヨセフは涙を流します。自分の赦しを信じ受け取っていなかった兄達を責めることはなく、ヨセフは「恐れることはありません」と優しく慰め、自分と兄達に関る出来事は神のご計画であったと諭し、その上でこれまで同様イスラエル一族の保証を約束します。ヨセフはキリストのモデルです。ヨセフの「なぜわたしの赦しを信じないのか」これはキリストの嘆きでもあります。罪の赦しを受け取れないと、過去の行いから罪責感に苦しみ、どう裁かれるのかと未来を恐れ、現在に不安を抱き続けて生きることになります。ヨセフは死に臨む際、「自分達はエジプトに寄留しているが、やがて神は約束の地カナンへ導き上る時が来る。その時、自分の棺を携え上るように」と遺言します。ヨセフは体は衰えても信仰はますます豊かにされ、アブラハム、イサク、ヤコブにされた神の祝福を信じ生涯を閉じたのです。私達も、世の終わりまで共にいて下さるというイエス様の約束をにぎり、罪の赦しによる平安の内に、未来の祝福を信じ歩んでまいりましょう。


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