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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-12-14 10:44:57 (0 ヒット)
メッセージ

「いと高き方の力」ルカ福音書1:26〜38
神から大いなる恵みをいただいた女性、マリヤは一方で非常に重い現実と使命をいただいた人でした。そのマリヤに御使いガブリエルは「おめでとう。恵まれた方。主が共におられます。」と話しかけられます。「おめでとう」の中には「喜び」という意が含まれています。神の喜び、天の喜びは人が救われることにあります。人々を救うために来られたイエスの誕生は私たちにとってこの上なく喜ばしい出来事なのです。しかしマリヤにとって聖霊による受胎は手放しで喜べることではありませんでした。彼女が生きている社会において、許婚でない人の子を宿すことが受け入れられるかと考えた時、ヨセフにどうのように説明したらよいか考えあぐねたことでしょう。先に懐妊を知らされた親類エリサベツにとっては、不妊で高齢であり諦めていた、無いものと思っていたが子を授かったことは、まさに神の御業であり恵みでした。しかし神の子イエスの母となるマリヤは、シメオンが預言しているように心を刺し貫かれるような苦しみ、痛みを引き受けねばなりませんでした。しかし御使いは、聖霊の力におおわれ奇蹟が起こる、神の力があなたに臨まれるのだと語り、マリヤは信仰の励ましを得たのです。キリストの弟子たちは聖霊を受けて喜びに満たされて証人となり、福音を宣べ伝えるために多くの苦難が待ち受けていましたが全世界に出て行きました。私達も重苦しい現実を前にしてもマリヤのように「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と御心が行われるよう祈り、聖霊の力を信じましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-12-07 10:08:24 (7 ヒット)
メッセージ

「我が助けは主から来る」詩篇121篇
この箇所はエルサレムへの巡礼の際に歌われた詩篇です。「わたしは〜」「あなたの〜」と歌っていますから一人ではなく複数人で読み、または歌ったと考えられます。地域のユダヤ人、または一族で声をかけあって集団で都のぼりしたようです。古代の旅は現在のような安全で快適、しかも早いというわけにはいきません。強盗・略奪、自然災害、食料の難とあらゆる危難が想定されましたから、無事に帰って来ることができますように祈り心をもって見送るわけです。「私は山に向かって目をあげる」シオンの山、かつてアブラハムがイサクをささげようとしたあのモリヤ山にソロモンの神殿が建てられていました。「わが助けはどこから来るのか」アブラハム、イサク、ヤコブに現れた主はご自身を紹介される時「私は全能の神である」と示されました。彼ら信仰の偉人たちは様々な苦難、失敗がありましたがその都度、神が助け守られました。権力や財力、人や物ではなく最も頼りになるのは天地を造られた神です。人間が創作した神々ではなく、私達を、この世界を創造し支配されるお方です。「海と陸を造られた天の神」というのはヨナの言葉です。御顔を避けて逃げようとした人ですが、不思議なわざで捕らえられ「救いは主にある」と信仰告白しました。神は「まどろむことも、眠ることも」なく、エルサレムへの行き帰りだけでなく生涯も守ってくださるのです。私達はもっと神様に期待し信頼して、愛する人々の守りとに祈りましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-30 14:50:39 (14 ヒット)
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「神の計画」創世記45章1〜8節
何故私はこのような苦しみを経験しなければならないのか、何故自分だけこのような不幸が続くのか?現在の状況を受け入れる理由として、これも全能なる主の御手の中の出来事である、と考えられれば幸いです。私だけ幸福から見捨てられた運命なのだ、という諦めでは悲しみと痛みが付きまといます。また人や社会・時代を責めれば、怒りが込み上げ虚しさが心を覆います。ヨセフの生涯は苦難の連続でした。兄弟に嫌われ外国へ奴隷として売られ、一生懸命仕えた家では讒言にあい牢屋に入れられ、夢を解き明かし王にとりなして下さいとお願いしても、しばらく忘れ去られていました。元はといえば兄達の妬みからこのような現状に陥ったのですが、その兄達に自分の身分を明かそうと決断した時、ヨセフは長年の恨みを晴らそうとしたのではなく、私が今ここにいるのは神の計画である、ヤコブの家族を守るために先にエジプトに遣わされたのだと語りました。私達の人生の中で起こる辛い出来事、それによる私達の悲しみや痛みを神は放任されてはいません。その出来事を用いて神は何かをされようとしています。私達が何かに執着しそれが人格の成長を妨げているのであれば、神はその執着を断ち、違う方向に目を向けさせるために大事にしているものを取り去られることがあります。時間的経過で人生を顧みると、あの苦しみの出来事が益と変えられたという神の視点が与えられ、その痛みに寄り添いずっと支えて下さった主の存在に感謝する時が来るのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-22 15:16:53 (21 ヒット)
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「恵みの相続人」ガラテヤ書4章1〜7節
金持ちが代々その富を相続していくには管理能力、経営能力などを伝授していかなければ維持していくことはできません。良い相続人がいなければ財産はあっという間になくなってしまいます。目に見える財産の分配は、時に争いの原因になります。けれども形の無いものは皆あまり欲しがりません。聖書では目に見えない財産、知恵について教えている箇所が箴言を始めたくさんあります。私が大切にしている教訓にこのようなものがあります。「一番大切なものは『心』の中に入るもの:信仰、二番目に大切なものは『頭』の中に入るもの:知恵、三番目に大切なものは『手に着ける』もの:技術、四番目に大切なものは『手で持つことができる』もの:金や銀」この順番を入れ違うと、道を誤ります。何を手に取るかより、何を心の中に入れるかが重要です。イエス様のパンの奇蹟の物語では、お腹が減った群衆がパンをいっぱい食べましたが、あの時イエス様を信じた人たちはその場の空腹をしのいだだけではなく、生涯を信仰によって支えられたのです。私達も物語を聞いて、今そのパンを受け取ることはできませんがイエス様の御言葉が心に届いて、魂の飢え渇きをいやし満たすことができます。パンを手に取ることよりも、心を豊かにする御言葉のパンが大切だということが分かります。子孫に残すもの、動産や不動産なども彼らを生かす手段ですが「パンにまさるものがある」本当に大切な御言葉のパン、真理を、信仰を継承していきましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-17 11:43:36 (22 ヒット)
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「恵み深き神」ヨナ書4章
ヨナ書は旧約には珍しい異邦人伝道が述べられている書物です。4章前半に神のご性質が述べられています。恵み深い、憐れみがあり、怒ることにおそく(忍耐強い・悔い改めを待っておられる)、慈しみ深い、災い(裁き)を思い直される。憐れみと慈しみを分かりやすく一言でいうと「ほっとけない」でしょう。罪深く愚かな者でも罪と死にまみれたまま滅びることを良しとせず「ほっとけない」。ヨナがなぜニネベに行きたくなかったか。それは万が一彼らが悔い改め創造主たる神を恐れでもしたら、神はきっと彼らを赦すだろうと知っていたからです。ヨナは残虐非道なアッシリアなど滅びてしまえと思っていたのでしょう。だから自分に与えられた使命を放棄し逃げたのです。ヨナは「ハト」の意味もあります。聖書では「ヘビのように聡く、ハトのように素直でありなさい」とあります。ヨナは確かに自分の思いには正直でしたが、神の御心には素直でありませんでした。「主の前を離れて」とは「主に背中を向けて」の意です。神は忍耐強く待っておられるだけでなく、時に何度でも捕らえようとされる方です。捕らえられ用いられたのがヨナです。ヨナはニネベから遠く離れたタルシシへ逃れようとしますが途中、嵐に遭い船が難船しそうになりました。ヨナは同船した人々の救いのため自分を海に投げるように提案します。ニネベの人々は滅びてしまえと思い神の御前から逃げたけれども、同船した人々は助かってほしいと願う。その違いはヨナと人々との関係性です。神は全ての人々が救われることを望まれています。神は異邦人であり非道なニネベの人々をも滅びるのをほっとけず、救おうとされたのです。海に嵐を起こされたのも、大きな魚を用意されてヨナを飲み込ませ、陸へ吐き出したことも全て主なる神がされたことです。とうごまを備え、枯らされたのも神です。ニネベの人々の救いのためにヨナを遣わされたように今、全世界の人々の救いのため神は私たちを用いようとされています。学校へ、職場へ、家庭、あなたの行く先々に主は共におられます。そして私たちの霊的な成長、人格の成熟のためなら痛みや弱さをも用いられるお方です。


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