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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-18 10:59:34 (4 ヒット)
メッセージ

「新しい生きた道をとおって」(ヘブル10:19〜25)
2018年の教会標語は上記の聖句です。使徒行伝では初代教会時代にキリストを信じる人のことを「この道の者」と表現していました。かつてあり、今もあり、これからもある「この道」をとおって、神に近づこうではありませんか。しかし旧約時代、神に近づくためには神の定められた方法により、秩序を守らなければなりませんでした。罪の赦しと汚れのきよめのために年に一回、大祭司が至聖所においていけにえを捧げました。アロンの子(ナダブ、アビブ)は祭司でしたが、律法に定められた通りにしなかったために神の怒りにふれ焼き尽くされました。しかし大祭司たるイエス・キリストが、人々の罪のため完全な犠牲としてご自身をささげられたため、完全に贖われました。こういうわけで私たちはイエスの血によって何らはばかることなく聖所に、神に最も近い所に入れるようになったのです。新しい道とは、大胆にまことの聖所に入り、神と関わりを持つことができる道です。ですから真心から神に近づき、神との交わりを深めようではありませんか。また、この箇所では共に集まることを推奨しています。「2人もしくは3人で私の名において祈る所に私もいる」(マタイ18:20)とあるように、信仰によって集まる人の間に神は臨在されます。教会のことを聖書ではギリシャ語で「エクレーシヤ」(神に召された者たちの意)と言います。キリスト教は孤独を知らない宗教と言われます。孤独な修行や訓練によって一人で極める宗教ではありません。神は共に生きるように私たちを召し集められ、互いに励まし合うことを望まれます。新しい年も互いに祈り合い、教会に示されたビジョンを共有し、この道に生かされていることに感謝しつつ歩もうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-18 10:56:35 (3 ヒット)
メッセージ

「今は恵みの時、今は救いの日です
―真理の言葉と神の力によって―(競灰螢鵐6:2)
2017年は上記の聖句を教会標語にして歩んでまいりました。歴史の中にあってこの時代は、あなたの人生の中では、今はどのような時でしょうか。あなたは何者か、自分はどのような存在であるかご存知でしょうか。標語の聖句は、イザヤ書49章8節から引用されていますが、その前後で「(主は)私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた」と書かれています。私たちは聖なる方に選ばれた者なのです。約二千年前にイエスが来られて十字架につけられて死に、三日目に復活された時から、罪に囚われていた人々が神の国に入ることができるようになりました。そして現在は、イエスが天に昇られてから再びこの世に来られるまでの期間にあります。人の目からはキリストの再臨までは永い時間に思えますが、神にとっては瞬く間です。だからどのように混沌とした時代にあったとしても、神のご計画では約束を成就する恵みの時であり、苦難から解放する救いの日なのです。私たちはその恵みに応答するだけでいいのですが、「ただ信じよ」という神の招きに応える人のなんと少ないことでしょうか。「笛を吹いても踊らなかった」と聖書に書かれているように、神様が全てを準備してから呼びかけても、それを聞こうとしない、心動かされないのです。その恵みの大きさ、深さを私たちのつたない言葉で人に語っても、十分に伝わらないかもしれません。しかし真理の力、神の力によって人の心が開かれ、神の救いを受け取ることができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-05 19:36:36 (16 ヒット)
メッセージ

「救いは待ち望む人々へ」ルカ2:21〜38
救い主イエスは弱い人の姿をとられて地に降られました。神はご自分の御子を人に委ねられました。イエスは神に選ばれたヨセフとマリヤのもとで育ちました。選ばれた者は特別なゆえに背負わなければならない苦労・試練があります。その困難・重荷も神様から委ねられた賜物と受け取ることが出来れば幸いです。「出来ますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」肉体を持つ人間として十字架の苦難を引きうけられた主イエスは、その人生において罪人である私達を救う御業を成し遂げられました。主イエスの犠牲が私達の祝福の基となったのです。シメオンは正しく敬虔な人で、イスラエルを贖う聖なる方を見るまでは決して死なないというお告げを信じ、救い主の現れを待ち望んでいました。そして幼子イエスを見るなり聖霊に示され神を賛美し預言します。神の宮には女預言者アンナもいて、彼女は贖い(赦しと救い)を待ち望む人々に救い主の誕生を語りました。クリスマスのお話しに登場する東方の博士、羊飼い、マリヤ、シメオン、アンナに共通するところは救い主の誕生を聞き、素直に信じたことではないでしょうか。私たちも素直に聖書の御言葉を聞き、信じ、従うことができますように。信仰も与えられるもの。ここに神の選びがあります。信じる私たち一人ひとりに神の特別があり、それに伴い困難や試練があったかもしれません。また、これから背負わなければならないかもしれません。しかし、それを神様からその人生を委ねられた賜物として受け取り、主に信頼し、期待し、共に歩めますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-12-28 16:57:40 (28 ヒット)
メッセージ

「救い主がお生まれになった」ルカ2:1〜20
ローマ皇帝アウグストの人口調査をせよとの命令により、ヨセフとマリヤはベツレヘムへ向かいました。身重のマリヤにはなぜこのタイミングで出発しなければならないのか、と酷な長旅だったことでしょう。それも聖書の預言が成就するため、歴史を支配されている神が働かれたのでしょう。無事にベツレヘムへ着きましたがどこも人が溢れて客間が借りられず、せめて雨露をしのぐ場所にと家畜小屋に宿泊しましたが、そこでマリヤは出産したのです。卑しく汚れた場所から、神の子の生涯は始まりました。その誕生を真っ先に知らされた人々は、野にいた羊飼い達です。彼らは重んじられず社会の枠外にいた、無学で貧しい人々でした。他の福音書を見るとキリストが誕生したことを間接的に知った人々もいましたが、彼らはヘロデ大王が恐ろしいためか信じなかったためか、確かめに行こうとはしませんでした。しかし羊飼いらは、御使いに告げられるとベツレヘムまで救い主を探しに行きました。みどりごが飼い葉桶に寝かされているという普通でない状況が、かえって神の奇蹟のしるしとなり救い主を見つけることができたのでしょう。この罪深い世には神の子を迎える余地はありませんでしたが、豪華な王宮ではなく家畜小屋で誕生したため羊飼い達はイエスに会うことができました。人の心の闇部を知り、自分の罪・汚さを自覚し「赦されたい」「救われたい」と願う人々にこそ、神の栄光が見えるのです。この私のために救い主は来てくださったのだと信じ受け止める人々に、今日も神の祝福は注がれるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-12-20 21:47:01 (28 ヒット)
メッセージ

「恵まれた者」ルカ1:26〜38
旧約の時代、神の御業により子が与えられた高齢の夫婦がいました。アブラハムとサラは最初、神様の約束であっても自分たちに子が出来るかどうか半信半疑でした。神様の喜びの知らせに対しても自分の経験と思考で判断し、思わず笑ったことを御使いに咎められもしました。ザカリヤも神の言葉が我が身に成就するのか疑問に思い、御使いによって口がきけなくなりました。さて、イスラエル北辺の田舎ナザレで育った乙女マリヤに告げられた御使いの言葉は衝撃的なものでした。「あなたはみごもって、男の子を産みます」聖霊によって神の子が生まれる、という未だかつて誰も聞いたことのないメッセージでした。マリヤはこれから彼女が負わなければならない困難を思うと、「アーメン」と従うことはなかなか出来ることではありません。旧約で神に用いられた人々、モーセ、ギデオン、エレミヤなどは召命のところで最初は不承でしたが、神に励まされつつその召しを全うしました。御子の母として神に選ばれたマリヤが先人たちと異なる所は、「お言葉どおり、この身になりますように」という従順と、神への信頼でした。自分の能力による報いではなく、神から一方的に与えられるものが恵みです。御使いが「あなたは神から恵みを受けたのです」と言われ、それを素直に信じられたのがマリヤの特質と言えるのではないでしょうか。救い主イエスは「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいます」という約束を下さいました。私達にも恵みと共に困難があることでしょう。しかし「勇気をだしなさい」と主から励ましをいただきながら「あなたのお言葉通りになりますように」と従う信仰をお与え下さい、と求めてまいりましょう。


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