「イエス・キリストの名」(使徒行伝3:1〜10)
この箇所では一人の人がいやされ、神を賛美しつつペテロとヨハネと共に宮に入って行きました。それまでの境遇は違うけれども同じ神の子とされ、共に神を賛美しながら歩む姿が教会と似ています。この生まれながらに足が不自由だった人は、毎日他人の力を借りて「美しの門」に運ばれ、人に施しを受けながら暮らしていました。自力では礼拝をささげることができない、旧約の規定により(「誰でも身に傷のある者は近寄って神の食物をささげてはならない‥」レビ21:17〜20)神に近づくことが「はばかられ」宮から遠ざけられた門の所に置かれていたこの人は、自分は神の祝福から除け者にされているように思ったことでしょう。ペテロとヨハネの言葉によりいやしの御業が起き、周りにいた人々は「足の不自由な人は鹿のように飛び走り‥(イザヤ35:3〜6)」と預言された通りのことがペテロとヨハネという自分達とたいして違わない人によって成されたことに驚き、あきれてしまいました。ペンテコステの日と同様、聖霊の御業に触れて神を賛美しほめたたえる者と、それを目撃して驚きあやしむ人々と分かれたのです。人々はこの奇蹟が何の力によってなされたのか知ろうとしました。この病いの癒しが、個人の資質や信仰の熱心さによるものであるならば多くの人は失望するでしょう。なぜなら私たちは常に信仰に燃えているわけではなく、律法を守るためのコンディションがいつも十分であるとはいえないからです。しかしペテロとヨハネが持っていたのはイエス・キリストの御名でした。それは金銀のように分け与えたら減ってしまうものではなく、与えても与えても尽きることのない、金銀にまさる力でした。「主の名を呼び求める者は救われる(ヨエル2:32)」それはどのような境遇の者であろうと、自分自身に立派な信心はなくても、救いを成し奇蹟をされるのはイエス・キリストの御名に力があるからだと、この出来事は教えています。
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