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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-04-14 15:40:46 (32 ヒット)
メッセージ

「祝福するために」(ヨハネ福音書20:1〜18)
イエスは金曜日に亡くなったため、安息日である土曜に入る前に急きょ遺体を埋葬したので、十分な準備が出来ていませんでした。そのため安息日明けの日曜の朝、遺体を整えようとマグダラのマリヤがお墓へ向かいました。すると墓の入口を塞いでいる石が取り除けられ、イエスの遺体がなくなっていました。通常では考えられない出来事が起こり、あまりの悲しみに心が激しく動揺していたマリヤは、御使いに話しかけられてもそれと気づきません。そんな彼女にイエスは「なぜ泣いているのか、誰を探しているのか」と言われました。主がマリヤの悲しみの心を知らないはずはなく、泣いている理由を尋ねているわけではありません。イエスは過去にナインの町で一人息子が死んだ母親に「もう泣かなくてもよい」と言い、棺に納められている青年を生き返らせる奇蹟を行いました(ルカ7:11〜15)。また会堂司のひとり娘の死に目に間に合わなかった時も、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言って娘の手を取り、起き上がらせました(ルカ8:49〜56)。これらの2つの生き返りの奇蹟を通して「泣かなくてもよい」と言われたイエス様は、私達の悲しみを知り、涙をぬぐって下さる方です。愛する者の死は、あの時こうしてあげられたら‥という後悔を生じさせ、生きている者の心を責め、嘆きの内にとどまらせてしまうものです。嘆きと悲しみに深く結び付く死を、神は「死を永久に滅ぼし、全ての顔から涙をぬぐう」(イザヤ25:7〜9)のです。死を体験されたイエス様ご自身がおっしゃいます「泣かなくてもよい」。悲しみに沈んだマリヤを喜びに変えた「マリヤよ」というのは十字架以前の親しんだ呼び方、マリヤにとって特別な「先生の声」でした。「私の羊は私の声に聞き従う。私は彼らを知っており、彼らは私について来る。」(ヨハネ10:27.28)真の羊飼いが私達を呼ぶ声が、死の嘆きを乗り越え新しいいのちの道へと進ませて下さるのです。よみがえられた主イエス・キリストこそが、私達を祝福するためにいのちへ導かれるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-04-05 14:47:16 (38 ヒット)
メッセージ

「十字架の上に」(ヨハネ福音書19:17〜22)
聖書はイエス・キリストが十字架につけられたことについて、出来事として淡々と記しています。十字架による磔は当時の死刑の方法では長く苦しめ死に至らしめるむごたらしいものであり、極悪人の刑罰として見せしめに用いられました。イエスご自身は十字架につけられ殺されることを「地上から上げられる」と表現しています(ヨハネ12:28)が、十字架にかけられ高い所に上げられることと同時に栄光を与えられることも意味します。何故ならイエスの十字架の死によるあがないを信じる人々は永遠の命を得るからです。その型(モデル)に、モーセが掲げた蛇について話されています(ヨハネ3:14)。民数記(21:4〜)でイスラエルの民が荒野の旅に不平不満を言い、主と指導者であるモーセを非難したことが神の怒りにふれ、大勢の人が燃える蛇にかまれて死にました。民は罪を犯したことを自覚し、悔い改めてモーセに神へのとりなしを願います。罪を犯す者に対する死の制裁の中で、青銅の蛇を仰ぎ見れば生きるという方法を主は備えられました。イエスは聞く者が分かるように、歴史的に起こった出来事と重ね合わせて例えを用いて話されているのですが、罪に対する神の裁きは死であることは変わらなくても、神が備えられた生きる方法――主を信じ十字架を仰ぎ見ることで救われる、ということを言われていたのです。「私を仰ぎ見て救われよ。私が神である、他にはいない。」(イザヤ45:22)
私達自身では手に負えない罪を清算するために十字架にかかられたイエス様を仰ぎ見て、私達の努力や能力では解決できない戦いも問題も、信仰の武具を身に着けて、神に拠り頼みましょう。十字架で流された血潮によって私達はきよめられ、聖霊が住まう宮となったことに感謝をささげましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-04-05 14:44:45 (25 ヒット)
メッセージ

「神に従うか」(出エ4:18〜31)
モーセはエジプトでは王族に優遇されたエリートでしたが順調な人生は暗転し、犯罪者として追われる身となりました。命がけで逃亡したミデヤンの地で妻をめとり羊飼いとして安住していましたが、今度はその安定した生活を捨てて困難が待ち受けているエジプトへ帰る決断をしました。神との出会い、神の取り扱いを受けて彼の心は変えられました。今の仕事(羊飼い)を辞め、妻と子どもを伴って住み慣れた地を離れることは、家族めいめいが思い描いていた人生プランを大幅に修正することになります。進学、就職、結婚などはそれがきっかけに人生が良くも悪くも大きく変化するものです。当人だけでなく共に住む家族にとっても大きな問題です。その都度、親が子どもに抱く願いや期待が裏切られたり計画通りに行かない壁にぶつかったりします。しかし神は御旨に従って生きようとする者を励まし、周囲の人の意思にも働きかけ、導き、問題を乗り越えさせて下さるお方です。モーセも舅エテロの承諾があり、エジプトへ向かうことを理解してもらえました。ここで唐突に「主はモーセを殺そうとされた」ため、チッポラが機転をきかし子どもに割礼を施しました。モーセはレビ族の子孫でしたが、チッポラはミデヤンの祭司の子だったので息子には割礼をしていませんでした。この割礼は祝福のしるしでありモーセの生き方をきよめるものとなり、神はモーセを赦されました。思いがけない問題が家族を信仰の道を進ませることもあります。偉大な指導者モーセも私達と同じく罪や弱さを抱え、その生涯には痛みも伴いましたが、助産師や母親と姉、エジプトの王女、チッポラなど多くの女性達に助けられて神の導きの中を歩んだのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-03-24 16:43:20 (61 ヒット)
メッセージ

「それゆえ行きなさい」(出エ4:1〜17)
神はモーセにイスラエルの民をエジプトから脱出させる使命を与え、「それゆえ行きなさい」と命じました。考えられる困難と責任の大きさに、簡単に「はい」と返事できず、自分にはとてもできないとモーセは何度も断ります。まず「人々は自分が神様から遣わされたとは信じてくれないだろう」と言いますが、神は‐鵑鮗悗吠僂┐襦↓⊇峪に重い皮膚病になったり治ったりする、というしるしを2つ与えられました。それでもモーセは「私は言葉の人ではありません」となおも断ります。私達も自己評価の低さや責任の重さから、大切な任務を果たす資質に欠けている、自分には能力がない、と尻込みするかもしれません。しかし神様はモーセにアロンを備えられたように、私達に足りないものを補うものをすでに準備して下さっている、あるいはその欠けさえも用いられることがあるのです。「それゆえ行きなさい」と神様は励まされました。信仰の父アブラハムは神様に召しを受けた時、行き先がどこか分からないが、全ての財産を携えて故郷を出て行きました(ヘブル11:8〜)。モーセは最初、神様からの召命にとまどい、その使命の重さに恐れ、他の人を遣わして下さいと頼みました。しかし神様に応え従おうとする者には、主ご自身が必要を備えて、命じられた道を共に歩もうとして下さるのです。私達も信仰をもって勇気を出して一歩を踏み出す者でありたいと思います。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-03-15 10:06:22 (70 ヒット)
メッセージ

「わたしは有って有る者」(出エ3:13〜22)
燃える柴から語りかけられた神にモーセは「(イスラエルの人々に)『その名はなんというのですか』と聞かれたら、なんと答えましょうか」と尋ねます。神は「わたしは有って有る者」と答えられました。主・ヤハウェは「ある」「存在する」=「生きる」「命」という言葉から派生しています。ご自身の中に根源的な命があり、何者にも依らず永遠に自立自在している「存在者」なるお方。人は一人では生きていけない、水や食べ物や空気がなければ命を保てない弱い存在ですが、絶対者であり命の源であるお方が、愛の心を持って私達に関わって下さる。聖なるけがれを知らない神は遠い所から人間を傍観しているのではなく、私達と共にいて何か事を起こそうと働かれるお方です。イエス様は安息日にいやしを行ったことを責められた時、「わたしの父は今に至るまで働いておられる、わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と言われました。私達の家庭や職場や社会との関わりにおいて、神と繋がらない時や場所はありません。聖書の神は現在も生きておられ、身近に働きかけておられる、私にも神が共におられると認め感謝することができたら、今は変化が見られない生活であったとしても、神の御業に参加している過程なのだと、信仰の目でもって物事を俯瞰することができたら幸いです。私達の人生の中で、人に虐げられたり苦しめられて何一つ益がない、無駄だと思えるような期間があったかもしれません。しかし神は誠実に生きようとする者を見過ごされるのではなく、苦労をあがなって下さるお方です。ヤコブが祈りの中で「生まれてから今日まで私を養われた神‥」(創48:15)と告白したのは彼の体験からくる信仰観です。神は各人の体験を通してご自身を啓示されるお方です。「あなたの神様はどのような神様ですか?」と尋ねられたら、どのように答えるでしょうか。導かれる神、養われる神、困難の中にあっても助け出される神――、それぞれの体験の中に共に歩んで下さる愛の神を見出すことができれば幸いです。


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