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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-07-13 22:47:38 (4 ヒット)
メッセージ

「しるしと不思議」(出エジプト7章)
出エジプト記7章8章ではモーセとアロンがパロの前で行った神の奇蹟を、エジプトの呪術師たちも真似しようとします。奇蹟を起こせることが力の証明、権威の正当性のあかしではありません。マタイ24:23〜でイエス様は偽預言者や偽キリストが現れ、大きなしるしや不思議なことを行って人々を惑わす、と注意しています。数々のしるしを行ったとしても、それが神様の栄光を現すために天から与えられたものか、欲を満たすために人の耳目を集めるためのものなのか、見極める必要があります。イエス様は「私の言葉を信じることができないならば、しるしを見て信じなさい」と言われましたが、目に見える奇蹟というのは私達を納得させる強い力があるのです。しかし奇蹟だけを見てその人物を神から遣わされた者であると安直に判断してはいけません。聖書はその人物や出来事からどのような実が実ったかを見て判断するように教えています。エジプトの魔術師たちが行った秘術は、人々を幸せにすることはできませんでした。モーセとアロンと同じようにナイル川の水を血に変えたり、全土にかえるをあふれさせたりして被害を拡大させても、それを食い止めるための魔術は行えなかったのです。さらにモーセとアロンが地のちりからぶよを大発生させると、魔術師たちにはそれができませんでした。その後も次々と神の奇蹟は行われ、人間の小手先のまやかしを凌駕する超人的な業をエジプト全土に見せつけたのです。もう一つ注目したいのは魔術師たちが杖を蛇に変えたところ、神の杖はその蛇を飲み込んだ奇蹟です。「飲み込む」と同じような言葉が出エジプト15章で追手のエジプトの兵隊が紅海にのまれた時に使われています。いずれもパロが神に抵抗するけれども、最後は神が完全に勝利することを「飲み込まれた」という言葉に表されています。神のご計画であってもそれに抵抗する者、私達を攻撃する者は必ずいます。移りやすい人々は人生の勝利者、力ある者の側につくため私達は侮辱され迫害され、敗けているように感じる時もあります。しかしイエス・キリストによって死は神の勝利に飲み込まれた(コリ15:55)ことを心に留めておきましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-07-06 21:40:33 (13 ヒット)
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「神の計らい」(出エジプト5:1〜6:1)
モーセとアロンはエジプト王に謁見し神のことばを伝えました。するとパロは「主とはいったい何者か」と神のことばを拒否しました。パロ(ファラオ)は太陽神ラ―の子とされ、エジプトの神々の化身として君臨していました。その現人神であるエジプト王が何故ヘブル人の願いに応じなければならないのか、というわけです。「わたしは主が誰であるか知らない」と言ったパロに、後に神はご自身をあきらかにされて行くのですが、その前にモーセが神の言葉を告げたことによってパロの反感を買い、ヘブル人に対する苦役が更に課せられることになりました。モーセにしてみれば、杖を蛇に変える奇蹟を見せられアロンを助け手とし、主ご自身が「わたしが共にいる」と説得されてわざわざエジプトまで来たのに、これが神のご計画ならばスムーズに行って当然という期待が裏切られた形になりました。神が主導で行われるのならば、あらゆる方法をもってパロの心にも働きかけ、この任務を簡単にやり遂げさせてほしいというのがモーセの心情でしょう。しかしむしろパロの心は頑なになり、ヘブル人の状況はもっと苦しくなってモーセは恨まれてしまいました。祈って始めたことなのに出鼻がくじかれ壁にぶつかると、これは正しいことではなかったのかもしれない、と疑問に思うことは多々あります。神は「今に分かる」と告げられました。神のご計画は私達の考える、願う予測とは違う形で進められるので、現時点では分からなくても後にこれが神の御心だったのだと分かる時が来る、というのです。パロはヘブル人を生産性でしか評価せず、エジプトを去らせることは労働力の損失であると考えていました。パロに仕えるために自由に意思を持つことを許さない、人格を認めない歯車として見ていました。私達も人づきあいの中で小さなパロに支配されたり、主ではない物に仕えて心までコントロールされることがあります。イエス様は「私は良い羊飼いです」と言われました。羊を大切に養い育てるように、私達の人格を尊重し配慮され導かれる、それが神と私達との関係性だと話されました。後にエジプトを脱出し神は十戒を授けましたがその中で「安息」を与えられました。仕事を休み体調を整えるだけでなく、普段の生活を断ち切り神と向き合うことで魂の安息を得る、人間性を回復することが目的です。パロは仕事を止めさせることを拒んだ、自分の意に反することは行わせない、それは明確な支配の意思表示です。私達は何に従っているのか、人間性を否定するものに支配されていないか、神からの安息を得ることで確認することができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-06-28 22:19:04 (13 ヒット)
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「父の御心、御子の道」(ヨハネ14:1〜14)
親というものは生み出すもの、育むもの、導くものであります。父なる神様は滅びに向かう人間を救い出してわたしのもとに迎えたい、と人間が受けるべき罰・死をご自分の御子に背負わせて無条件の愛を示されました。この福音によって新しい命が生み出され、信仰の生涯が育まれ、永遠の命の道へと導かれるのです。ヨハネ14章ではイエス様が「心を騒がせず‥まず神を信じなさい」と御父の存在、役割、御父が成すことについて説かれました。教会というのもこの地域・社会において生み出すもの、育むもの、導くものという父親の役割を担っているのです。トマスは「どうしてあなたの道を知ることができるでしょうか」と尋ねます。詩篇25:4にもあるように、聖書は私達が道を問う者であると言っています。道を尋ねなければ目的地へは辿り着けない存在なのです。イエス様は「私が道であり‥私を通してでなければ父の御もとへ行くことはできない」と答えられました。父の御もとへ行く、これが私達の歩むべき道です。道を探し求めるために必要なのはへりくだる心です。「本当に自分は足りない者、自分には道を見つける力も知識もありません、私は何もない貧しい者です」という貧しさ。それと同時に、神を心から畏れることが必要だとイエス様は言われました。ここで使われている「道」の原語は「踏みつける」という意味もあります。人々が歩いて踏み固められた所が道となるのです。イエス様は人々に鞭打たれ、唾を吐かれ、踏みつけられる生涯でした。しかしそれは創世記の預言にあるようにサタンを踏みつけ、滅び・死の力を打ち砕くための道だったのです。クリスチャンの生涯は父の御心を歩もうとするとキリストと同じ迫害、困難が伴います。しかし失望で終わることはありません。既に世に勝利された御子によって、何者にも踏みにじられることのない道を歩むならば、私達の苦難は神が用意しておられる消えることのない希望に変えられるのです。御子と御父は思いを分かち合っていました。信仰に歩む者にとって重要なことは神の御思いにとどまり、神と共に歩むことです。私達が神の願い・計画を知ろうとするならば「自我」のラインから飛び出して、御子が歩まれた道に踏み出すべきです。それは御父と完全につながって歩まれた御子の感じた幸せを体験することができる道です。与えられた人生の残りの時間を、その道を歩むことで神と心を通い合わせる最高の喜びを獲得し、最高の幸せな人生を送ろうではありませんか。
アッセンブリー京都教会 村上渡師


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-06-23 10:07:27 (15 ヒット)
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「神があなたがたのために」(使徒3:11〜26)
生まれつき足のきかない男の人が立ち上がり、完全に癒されたのはペテロとヨハネの能力や信心によってではない、イエス・キリストの御名によるのだとペテロは人々に言い、説教が始まります。その冒頭は「あなた方がいのちの君(いのちの源、いのちの導き手)を殺したのだ。」このインパクトの強い言葉は聴衆の心を突き刺しました。彼らはイエスが神を冒涜した、民衆を惑わした、偽預言者だ‥と徹底してイエスを否定し、十字架によって殺害しました。ユダヤ総督ピラトは、イエスを死刑にする理由が見つからず放免しようとしましたがユダヤ人にその裁定を反対されました。また祭りの日に罪人の一人を免除する慣習からイエスをその一人として名前をあげましたが、それもユダヤ人に拒まれ、しかも「イエスを十字架につけろ」という声が大勢を占めたので結局イエスは民衆の声に押された形で十字架刑に処せられたのです。イエスを殺さない選択もありましたが、人々がそれを望み、決断したのです。神が人々の救いのため、命の道へと導くために遣わされた預言者・指導者を血祭りにあげることは旧約の時代から行われたことでした。そしてモーセに勝るいのちの君をも殺してしまいました。人は、弱さ愚かさ故に歴史を繰り返すのでしょうか。ペテロの言葉を聞いた人々は取り返しのつかないことをしてしまった、どうあがいても、どう言い訳しても赦されない罪深いことをしてしまった、と悔やみ、おののいたのです。忘れてはならないのは、現代の私たちも彼らと同様の罪の性質、愚かさを持っているということです。自分は失敗するまい、罪は犯さないと思っていても、神の助けなしにはペテロのようにいのちの君・正しい方を拒んでしまう弱さから逃れられない存在なのです。彼らと同様の愚かさ、弱さ、罪深さを持つ私たちですが、取り返しのつかないことをして深い後悔があっても、自力ではどうしようもなくても、神は回復を与えて下さるお方だということを心に刻みましょう。「神がまずあなたがたのために」いのちの君であるイエス・キリストを世に遣わされ、復活の導き手としてイエスを死者の中からよみがえらせたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-06-13 22:51:40 (22 ヒット)
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「イエス・キリストの名」(使徒行伝3:1〜10)
この箇所では一人の人がいやされ、神を賛美しつつペテロとヨハネと共に宮に入って行きました。それまでの境遇は違うけれども同じ神の子とされ、共に神を賛美しながら歩む姿が教会と似ています。この生まれながらに足が不自由だった人は、毎日他人の力を借りて「美しの門」に運ばれ、人に施しを受けながら暮らしていました。自力では礼拝をささげることができない、旧約の規定により(「誰でも身に傷のある者は近寄って神の食物をささげてはならない‥」レビ21:17〜20)神に近づくことが「はばかられ」宮から遠ざけられた門の所に置かれていたこの人は、自分は神の祝福から除け者にされているように思ったことでしょう。ペテロとヨハネの言葉によりいやしの御業が起き、周りにいた人々は「足の不自由な人は鹿のように飛び走り‥(イザヤ35:3〜6)」と預言された通りのことがペテロとヨハネという自分達とたいして違わない人によって成されたことに驚き、あきれてしまいました。ペンテコステの日と同様、聖霊の御業に触れて神を賛美しほめたたえる者と、それを目撃して驚きあやしむ人々と分かれたのです。人々はこの奇蹟が何の力によってなされたのか知ろうとしました。この病いの癒しが、個人の資質や信仰の熱心さによるものであるならば多くの人は失望するでしょう。なぜなら私たちは常に信仰に燃えているわけではなく、律法を守るためのコンディションがいつも十分であるとはいえないからです。しかしペテロとヨハネが持っていたのはイエス・キリストの御名でした。それは金銀のように分け与えたら減ってしまうものではなく、与えても与えても尽きることのない、金銀にまさる力でした。「主の名を呼び求める者は救われる(ヨエル2:32)」それはどのような境遇の者であろうと、自分自身に立派な信心はなくても、救いを成し奇蹟をされるのはイエス・キリストの御名に力があるからだと、この出来事は教えています。


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