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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-23 22:29:18 (0 ヒット)
メッセージ

「人の正義と神の義」(出エジプト2:12〜25節)
モーセはヘブル人という自覚はありましたがエジプトの王族として不都合なく生活していました。しかし同胞への仕打ちに義憤にかられエジプト人を殺害してしまったことを機に、モーセの人生は暗転します。彼流の正義を行ったもののヘブル人からは拒絶され、エジプトとの関係には亀裂が生じ、王に殺されそうになり、モーセは国外へ逃亡します。その昔ヨセフが宰相の頃、ヘブル人はエジプトに歓迎されましたが、ヤコブの子孫が勢力を増すにつれてその関係は冷え、ついには根絶やしにされそうになりました。イスラエルの民が歴史的に体験した出来事をモーセは個人の歩みで追体験することになります。逃亡したミデヤンの地では祭司の娘達が羊飼いに追い払われたのを看過できず、彼女達を助けました。そこで行った彼の正義は受け入れられ、祭司の娘チッポラと結婚し、彼は平安を得ました。生まれた男子にゲルショム(寄留者の意)と名付けますが、外国人でありエジプトにも居場所のないモーセの自覚から命名されたのでしょう。ミデヤン荒野での40年の生活は、後にイスラエルの民を率いてカナンを目指すリーダーとなるための資質を培いました。安定した生活を送っていた彼に、神はエジプトへ向かうよう命じられます。エジプトで「誰があなたをさばきつかさにしたのか」とヘブル人に非難されましたが、モーセは後の生涯この問いにさらされ続けることになります。神に召され、神の民を救う為に命をかけているにもかかわらず、受け入れようとしない人々に傷つけられながらモーセは指導者として歩み続けなければなりませんでした。人の正義は時に衝突・争いの原因となり、人を破滅させるものです。しかし十字架によって示された神の義は人を救い、命をもたらすものです。神の義を行うためにモーセは神に整えられ用いられる器へと訓練されていきました。80歳からモーセの新たな人生が始まったように、私達もこれまでの様々な苦しい体験を積み重ねていくことは神のご計画の中で整えられていくため必要なことだったのです。聖書の歴史の中で起こる出来事は、私達の人生にも同じようなことが起こると鑑み、聖書を学ぶ中で生きる知恵をいただくことができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-17 10:28:40 (12 ヒット)
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「麗しいのを見て」(出エジプト2:1〜11章)
ヘブル人を恐れるエジプト王はその勢力をそぐため苦役を課し、生まれた男子を全てナイル川に投げよ(殺せ)と命じました。そんな中レビ人の子として生まれたモーセも例外ではありませんでした。母親はその「かわいい」「麗しい」「美しい」のを見て大切に育てましたが隠しきれなくなりました。彼女に出来る精一杯のことはその死の瞬間を遅らせることぐらいでしょうか。パピルス製のかごで防水の工夫をし、ナイル川の岸辺の葦の上におきました。この子が何とかして生きのびてほしいと出来る限りのことをしました。しかし、死は時間の問題です。「もう駄目だ」このような感情が芽生える瞬間は、信仰者の長い人生の中にもあります。「あとは神に委ねるしかない」そう心から委ねることが出来る人は幸いです。神が備えられたのは、ヘブル人の男子を殺せと命令を下した当のエジプト王の娘でした。彼女にあわれみの心を与え、モーセを助けるように動かされたのです。エジプト王の娘の子として扶助を受けながら育ち、王族の一員としてエジプトの一級の教養を身に着けました。エジプト脱出の際のイスラエル指導者として、神の訓練は始まっていたのです。後に神と群衆の仲保者として立つモーセも、誕生した時は自分のことを守ることもできない非力な赤子でした。神は母親の心、王の娘の心に働きかけモーセを守られたのです。私たちの人生の中にも危機的状況はあることでしょう。そのような時こそ神はこの状況をどの様に用いられるのか、またどの様に備えて下さっているのか期待したいと思います。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-10 17:06:43 (24 ヒット)
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「恵みの日々の中で」(出エジプト1章)
創世記でヨセフは神の助けと導きにより、エジプトで位人臣を極めました。当時のエジプト王朝はヒクソス人が治めていましたが、それから400年後にエジプト人による支配が再興すると、イスラエル人に理解を示さない(ヨセフのエジプトに対する貢献を知らない)王が登場します。ヤコブの一族は激しい飢饉にあい、食料難から逃げるようにエジプトへ移住したわけですが、70人ほどの家族が何百万という民族におびただしく増え広がっていました。神がアブラハムに約束された通りにその子孫が繁栄したのです。それに恐れを感じたエジプト王はヘブル人(=イスラエル人)の勢力をそごうと謀り、過酷な苦役を課しました。そしてヘブル人の男子は生まれたらみな殺せと命令します。しかし王の意図に反してヘブル人はますます増え続けました。新約聖書のヘロデ大王によるベツレヘム周辺の男子虐殺(マタイ2:13〜)を想起させますが、人の手で神のご計画を遮るような妨害があろうと、神のご計画は御手により必ず成就されるのです。またそこには神を畏れる助産師達の働きもありました。神は彼女らの家を栄えさせました。いのちの尊厳に対し様々な場面で問われることがありますが、胎内に形造られる前から神が人を愛していた、という神への畏れがその問いに対する答えを出し、生き方に反映するのです。様々な職業があり、その価値判断も色々あり容易ではないかもしれませんが、神を畏れる者でありたいものです。この地上において私達も寄留者ですが、思いもよらない出来事も時がたてば喜びに変えられると信頼し、恵みの内を歩めますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-02-03 11:00:57 (20 ヒット)
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「イエスを仰ぎ見つつ」(ヘブル12:1〜2)
新年礼拝の説教でイエスを仰ぎ見つつ「新しい生きた道」を歩みましょう、とお話ししました。本日はその聖句と前後から学びます。ここでは3つのおすすめがあります。 愃瓩鬚なぐり捨てる』聖書の倫理基準で言う罪(軽率な言葉、愚かな行いなど)を持っていない人はいません。からみつく罪の性質を捨てることは容易ではありません。服に着いたシミは簡単に落とせません。凍り付いたものは忍耐強く温めて溶かす必要があります。◆悗錣燭靴燭舛了臆辰垢戮競争を耐え忍んで走りぬく』私たちは耐え忍ぶことが出来るでしょうか。その根拠・力となりうるのは忍耐と励ましの神(ロマ15章)を知ることです。神は、人々が悔い改め神に立ち返ることを待っておられます。人を救いへと至らしめるのは神の力です。その神の力(愛)が今私たちに注がれているのです。聖書の与える忍耐と励ましによって、その競争を走り抜くことが出来るのです。『忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す(ロマ5:4)』この競争がマラソンと似て非になることころは、「整備されたコースではない」「他の人と競い合うのではない」「孤独に一人走るのではない」ところです。『イエスを仰ぎ見つつ』イエスから目を離さず歩もうではありませんか。疲れ果てて気力を失った時、目的を失い迷いそうな時、罪がないのに十字架の道を選ばれた主の忍耐を思い起こし、私たちを愛するがゆえに整えられようとする神の訓練を受けようではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-01-25 09:53:37 (21 ヒット)
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「信仰の確信」(ヘブル11:1〜3)
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」信仰の一つの定義ですが、これだけで説明し尽くせるものではありません。百卒長のように“神の力”を信じること(マタイ8:5−10)だけでなく、『キリストに在って』歩む(主を信じ、主イエスと共に考え、行動する)―神と人格的交わりを持って生きること、主イエスの愛の戒めを実践することも信仰を表します。 『確信』は原語では《土台、根底にあって支えるもの、確証》《権利証、保証する書類》などの意味があります。つまりイエス・キリストを信じることは救いの確証、神の国への切符を持っていることと同じ役割を果たすというのです。 『まだ見ていない事実を確認する』ということは、キリストに対する信頼(信仰)が私たちを根底で支えるものとなるのです。人生の中で私たちを悩ます出来事は、問題の解決や将来のことがまだこの目で見えていないから、不安に押しつぶされそうになるのです。そのような時こそ、実際は目に見えないけれども主が共にいてくださるのだと信仰を働かせる機会です。信仰も与えられるものです。私たちの意志の強さや思いの純粋さなど個人の資質によって恵みの多寡が増減するわけではなく、その信仰・信頼を向ける方との関わり繋がり方によって支えられ守られていることを知るのです。聖書に登場する数々の先人達も、彼らが偉大だと称えられているのではなく、問題を乗り越える糸口は神にゆだねる信仰であると、彼らの人生を通して私たちに教えているのです。


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