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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-09-20 22:30:31 (0 ヒット)
メッセージ

「あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12章)
人間と動物の違いは、宗教を持っている点です。宗教は必要か?と言う問いにあなたはどう答えますか?それぞれの回答やその理由には個人の死生観が深く関わってくることでしょう。また人間の存在・あり方をどのようにとらえているかが反映されてきます。不要である、という意見の中には既存の宗教団体・信者の在り方に不満があったり、歴史の中での宗教の犯した過ちを許せないなどの理由からでしょう。必要である、という意見には見えざる大いなる方(力)に対する恐れであったり、死者を弔う葬儀のためなどの理由があげられます。さて日本においてキリスト教は必要か?という問いにはどのような答えがあるでしょうか。在来の宗教が沢山ある中、異国の神を信奉する必要はないと話される方もいらっしゃいますが、日本における宗教の多くは海を渡って伝えられたものであり、それぞれに影響を受け合い育まれてきたのです。一神教の排他性から狭量で独断的だ、と唱える方もいらっしゃいます。日本は多神教で他の宗教には大らかだから平和的だ、と。さて本当にそうでしょうか。日本の歴史を振り返ると政治がらみとはいえ仏教や神道での宗派間での骨肉の争い、特定の宗教団体の殺戮・弾圧は数多くあります。人心をつかむために宗教が政治利用されることは古今東西枚挙にいとまがありませんが、宗教とは根源的なところで‖腓い覆詈(存在)に対する畏れ、∋爐紡个垢覿欧譟△海譴蕕人間の理解を超えた何者かに対する崇拝につながっています。キリスト教はこれに対し、,海寮こΔ反祐屬鯀呂蕕譟∩瓦討鮖拉曚靴討られるお方は唯ひとりの神である。△△覆燭虜瓩亮呂靴隼爐量簑蠅鵬魴茲鰺燭─永遠のいのちを下さるのもキリストのみである。という解答を持っています。あなたにとってキリスト教は、神は必要ですか?その問いを静かにかみしめてみましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-09-12 14:28:40 (15 ヒット)
メッセージ

「信じる者の幸い」(ヨハネ福音書20:27−29)
キリスト教は信頼できるか?と言う問いにあなたはどのような回答を用意しているでしょうか。私はその問いが教会へ向けられているものなら明快に信頼できます!と断言はできません。人のつくる共同体・組織である以上完全ではなく、ときに信頼を損ねる罪過ちを犯すからです。しかし、信仰の対象であるキリストは信頼できる、と断言します(ご利益を期待するなら失望することでしょう。その人の願望と神の計画は異なるものだからです)。その根拠として聖書の神の永遠性と不変性があげられます。時代・状況・民族・国家が異なれば価値観や習慣・習俗は変わって行くものですが、聖書の真理は永遠に変わりません。地域によって異なるローカルルールではなく、不変で普遍的な真理です。また福音書に記されているキリストの人柄(ご性質、ご性格)を知れば、真に信頼できるお方であると知ることができるでしょう。キリストを信じることが出来れば〆瓩赦される、永遠の命を得る(永遠に変わることない神様との関わりを得る)、神の家族とされる(天の国籍を得る)のです。私達自身が罪の代価を支払わなくとも、キリストを信じるだけで神からの承認が得られるのです。神(キリスト)は〇笋鯀んでくださった(ヨハネ15:16)、∋笋鯊臉擇砲靴討ださっている(イザヤ44:3)お方です。競争社会の中で絶えず比較され、人の価値は貶められ歪められる一方です。見下される人の世において、神の私達に対する慈しみは深く、「わたしの目にはあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」この神の私達に対する評価を聞き、世間では奇異に思われる方もいるでしょう。人それぞれ価値観が異なれば物事の視点も違います。ある物に対する強い思い入れが評価額となり、市場価格とは異なる値をつける人もいます。永遠に変わることのない神は、あなたが何者であろうと、ずっと探していたかけがえのない宝ものとして喜ばれる方です。神のあわれみと恵みを知り、このお方を信じることが出来れば幸いです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-09-07 22:50:02 (12 ヒット)
メッセージ

「失望せず祈るために」(ルカ18:1~8)
やもめと裁判官のたとえ話から学びます。イエス様がこのたとえ話をされた意図は「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ということであり、それがたとえ話の冒頭に記されています。ルカの福音書などのイエス様のたとえ話は、宗教的であることと倫理的でないこと、そのギャップにより印象を取り違えたり、文化的背景を知らなかったりすると現代の私達には意味不明になることがままあります。イエス様は17章後半にて「神の国」、人の子、終末について語っておられます。この世の審判の日が来ることを聞いて不安に感じ動揺する弟子たちと、質問したパリサイ人に向けて、厳しい現実の戦いの中で失望せず信仰に立って祈るべきであることを教えられるためにたとえを用いられたのです。登場人物は裁判官一人と訴える女性が一人。当時、ユダヤ人裁判官は3人制でした。ところがここに出てくるのは1人ですからローマから派遣された裁判官で、1人で判決を下すことの出来る立場にあると推測できます。すると「神を恐れず、人を人とも思わない」という言葉がわかります。支配する側の驕り高ぶり。いかに不正を働いて財産を増やすかに腐心し、裁判によって正義を実現するなどどうでもいい、そのような裁判官です。そこに理不尽な苦しみの中にいる一人の女性がこの裁判官に訴えてきました。毎日、何度も訴えに来ますが有利な判決を下すよう手回す賄賂などはありません。しかし、こう毎度来られたら自分に悪いうわさがたっては面倒が起こる。疑われてローマに更迭なんてことになったら、それこそ大変。面子がつぶれる。この辺で裁判を開いてこのやもめが来ないようにしてしまおう。不正な裁判官でさえこのように一生懸命に訴えてくる人に対して渋々ながらも動こうしたのです。私達を選び、愛してくださる神様はなおさら信じ従おうとする者を捨て置かれません。「私の目にはあなたは効果で尊い。わたしはあなたを愛している(イザ44:3)」信仰の戦いの中を歩まんとする私たちに対し神様は正しい裁きをつけないで放っておくはずがない。私たちは困難にあっても信仰を捨てて滅びる者ではなく信仰に立って命を得る者でありたいと思います。失望せず期待し祈ろうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-30 11:11:18 (14 ヒット)
メッセージ

「希望をもって喜んでいる」(ローマ5:1〜11)
この書簡はパウロがまだ行ったことのないローマの地で、信仰を持っているまだ会ったこともない人たちに向けて書き送ったものです。ここでは「信仰によって義とされた私たち」は、神との平和と、神の栄光にあずかる希望を持っていると喜んでいます。喜ぶ=誇るとも訳せますが、旧約聖書(詩篇20:6−7)では私たちが誇るものは「我らの神、主の御名」であると示しています。ここでは誇る=頼る、信頼するという意味を含ませています。「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る」戦車、軍馬は重要な軍事力であり、沢山持つ者が勝利する、力ある者と見なされていました。しかし詩篇の作者は「彼らはかがみ、また倒れる」武力を誇る者たち・神でないものにより頼む者たちは、それらが弱るとつまずき倒れてしまう、しかし神を頼る者は転んでもまた立ち上がることができる、とうたっています。パウロは「キリスト・イエスを誇りとし」(ピリピ3:3)、「どんな人間でも、神の御前に誇ることがないため」(コリント1:26〜31)と言っています。救いは自分の力によってではなく、キリスト・イエスへの信頼によって与えられたのだから、と。もし自分の能力や努力によって救いを勝ち得たのであったら、恵みの座から落ちないように常に戦い続けなければなりません。その地位を保つために奮闘し続ける人生に平安はあるでしょうか。神が私たちを召して下さり、やがてキリストに似た者へと変えられて行く希望を下さいました。その希望を信じ、誇りにするからこそ患難さえも喜ぶと書かれています。患難は忍耐を、忍耐は錬達を生む、と言っていますが、錬達は承認、批准というものも表しますが、鉱石を溶かして金かすを除き金属を精錬することを意味します。練られた品性とは、その人が身に着けた徳性ではなく、苦難をくぐり抜けて神様がつけて下さる承認、認可のことです。ですから「錬達は希望を生みだす」のです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-08-30 11:08:11 (12 ヒット)
メッセージ

「心を騒がせるな」(ヨハネ14:18〜31)
8月の終戦記念日の前後は平和について考えさせられます。聖書では平和について、神様と私達との関係性における平和や、罪を赦された者の平安について語られることが多いです。イエス様はこの聖書箇所で「あなたがたに平安を残します」と語られましたが、弟子たちの心は乱れ騒いでいたのでした。それはイエス様の「あなたがたは来ることができないところ」「わたしは去って行く」という言葉に激しく動揺し不安になったからです。13章から17章まで、不安におののき心を騒がした弟子たちが次々と質問したので、それに答える形でイエスは真理について多く語りました。今、私たちは弟子たちの問いから多くの真理を学び、恵みを得ているのです。心騒ぐような状況であったとしてもそれを用いて神様は真理を教えて下さるのです。「心を騒がせるな」とイエス様はおっしゃいますが、嵐で死にそうな時は嵐を静め、食料が無い時はパンを与えられ、家族に病気の者がいれば癒してくださったのです。自分たちを守り、助け、導いてくださるイエス様がいなくなる。別れが来る。それはあまりにも大きな喪失です。不安になるのも当然でしょう。そんな弟子たちに「心を騒がせるな」とおっしゃったイエス様は鉄面皮なのでしょうか。上から目線で心無い命令を下されたのではありません。イエス様は軽々しく「心を騒がせるな」と話されたのではありません。(ヨハネ12:27、13:21)などを見てみるとイエス様も心を騒がせることがあったのです。弟子たち(私たち)の心の弱さも十分に知っておられた上で、イエス様は十字架、復活、聖霊の注ぎ、信じる者たちの未来を見越して語られました。イエス様が与えられたのは具体的な個々の問題解決法ではなく、約束であり、希望です。生きた助け主、聖霊が遣わされるのです。私たちの信仰の生涯においても心を騒がす(悩ます)問題があるでしょう。しかし、その困難や問題を通してでなければ分からない、知ることの出来ない神様との関わり、恵みがあるのです。


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