「神われらと共にいます」イザヤ7:1〜17
「主の声に従うことは」エレミヤ書42章
「あきらめない神」エレミヤ書31:1〜14
人は罪を犯し、悔い改める、をくり返します。私たちは世にある限り【罪(自己中心・自分本位、愚かさと狂気の渦)】に巻き込まれる恐れは常にあります。ですから「あなたならどうする」という問いに対し答えを準備しておくのです。キリスト者の生き方は「3つの愛に生きる」、すなわち神を愛し、自分を愛する様に隣り人を愛することです。平和の神に救われ、いのち与えられた私たちに「自らすすんで争いを起こす」ことはあり得ません。平和のために出来ることを尽くすべきです。出来ることなどない、人は自分勝手な生き物だから、ひとりの努力ではどうにもならないことがある、平和の実現も、罪人が救われることも、到底無理なのだと「あきらめる」と悟ることが賢いのでしょうか。否、私たちは諦めません。旧約聖書でイスラエルの国家が崩壊し、滅ぼし尽くされたエルサレムの瓦礫に立ってエレミヤは自分が生かされていることの不思議に、主の恵み・憐れみに思いをはせます(哀歌3:22)。主の「恵み」「憐れみ」のヘブル語の原語は、他の国の言語に訳しにくい言葉で「揺るがない愛」「慈愛」「誠実」「憐れみ」と色々な訳がなされますが、基本にあるのは「契約に基づく愛」です。神の契約により裁きが下されても、回復も既に準備されておられるのです。自力救済できない愚かで弱い人間のために、神のひとり子が送られ、助け主である聖霊が遣わされたのです。人間には可能性がなくても、神が働かれるなら私たちの想像を超えた方法があるのです。神は人が悔い改め、神に立ち返ることを諦めないお方です。ここに愛があるのです。このお方に希望があるのです。
「忍耐と慰めの神」ローマ15:1〜6
教会は力のある人だけが重んじられる所ではありません。「自分を喜ばす」ことは、しばしば自己中心的な思いから始めますが「隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばす」ことは思いやり、親切、善意に基づきます。そのモデルとなるのがイエス・キリストです。キリストはご自身を喜ばせることはされず、むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」(詩篇69:10)と書いてあるとおり、忍耐する神の御姿を見せられました。今も昔も神を信じる人々は同じような状況にあり、聖書はイエスにならって慰めと望みを得るよう勧めています。「こうして心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」ばらばらの個性・人格であった人々がキリストのもとに一つになる。では「一致」とは何でしょうか?命令されて隣りの人の真似をすること、没個性を要求され司令官の意のままに、足並みをそろえて軍隊のように進むことではありません。人はそれぞれ歩くスピードも違えば、歩幅も違います。ばらばらでも良いのです。ではどこに一致があるのでしょうか。それは同じ目的に向かうところです。イエス・キリストのまなざしのその先、つまり神のご計画(御心)を求め、目指すところは一つであるということです。高慢、自己中心の罪(歪む・曲げるの意)は、人の集まり(組織・共同体・人間関係)を壊す方向性をもっています。一致をもたらすものは、謙遜と他者への思いやりです。旧約聖書全体はイエス・キリストを指し示す書物(ルカ24:27)で、神の忍耐の歴史、神を信じ成長していく神の民の歴史を学ぶことが出来ます。いかに神の御心に応答するべきでしょうか。様々な違いを認め合い、理解することを諦めないこと、共に神に向かい礼拝をささげることです。礼拝とは、バラバラだった人たちが神を中心に一つとなる神の奇蹟であり、救いの喜びと永遠の命の恵みを分かち合うことができるのが、信仰の素晴らしさです。
「神の義によって」ローマ9:30〜10:4