アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-10-04 14:49:29 (55 ヒット)
メッセージ

「苦難の問題について」ヨハネ福音書9:1〜3
身をすり減らすような苦しみ、悩み、不条理な迫害など、神が善であるなら何故お許しになるのか?聖書はこの問いに具体的な解決策は明示していません。が、聖書はいかに勇気をもって信仰を働かせ忍耐すべきか、苦難とどう向き合うかに対し解答を持っています。苦難や問題に遭い、その人の在り方が問われる時こそ信仰が活かされる場面であることを教えている箇所はたくさんあります。しかし災いを個人の罪に負わせる風潮が根強くある文化圏では、思わぬ災害や苦難がふりかかった人に対し、「それは罪の結果だ」因果応報だ、と考えがちです。なにがしかの罪の結果、自ら苦難に陥ることもありますが、そればかりが原因とは限りません。そのような時の理由づけとして安易に罪を探すことは人も自分も苦しめることになるでしょう。苦難のない平坦な環境を人は望みますが、神は苦難の中で試行錯誤し、学ぶためにそのような状況・環境を許されました。苦難を経なければ分からないことがあるのです。痛みも同様でしょう。痛みを経験することで危険を察知し、避けることや予防することが出来るようになるのです。また自身が体験することで人の痛みに共感することが出来るのです。勇気、忍耐、憐れみ、同情心のような徳性は苦難により培われていくのです。またこれらと異なる苦難があります。自発的に受ける犠牲的苦難(イザヤ53:4,5)です。それはキリストの十字架です。神の愛と義を体現するため苦難を選びとり、御業を成就されました。創世記においてヨセフが幾重にも経験した苦難は、神の「良いことのための計らい」と認めました。私達も神の愛を忘れることなくキリストに習い歩んでいこうではありませんか。苦難や試練はときに神を疑わせ信仰を損なわせる方向を持つものですが、神はその同じ苦難を用いて信仰を強め、神と愛と力を豊かに経験させてくださるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-09-28 22:27:10 (54 ヒット)
メッセージ

「得るために捨てる」(ヨハネ10:17、18)
「イエス・キリストの十字架による贖罪は必要か?」という問いに答える前に、罪責感についてお話ししましょう。私たちは自分のした悪い(道徳・倫理・宗教的に‥)行いのほとんどに罪責感を持ちます。その罪責感は自分以外の存在による「赦し」によってでなければ取り除かれません。大いなる者、権威ある者により「あなたは赦された」と宣言されなければ心の平安は訪れません。悪い行いを帳消しにしてもらい、誰からも責められることのないようにするには償いが必要です。それがキリストの犠牲によってもたらされる十字架です。当時の反イエスの立場の人たちは、イエスは社会を混乱させた偽キリストだと断罪しました。彼の死は神を冒涜した結果の裁きだ、偽善が暴かれてイエスは自分の罪によって殺されたのだと思いました。しかしイエスは明確な意図をもって十字架の道を選ばれました。イエスからいのちを奪ったものはいないのです(ヨハネ10:18)。〆畤佑某世凌圓ぬ愛を示すため、∋簔に対する愛ゆえにどんな苦しみをも耐える勇気を示すため、K塾呂魑馮櫃薫に勝利するため。聖書は私達の罪の身代わりのためにキリストは死なれた(コリ15:3、ペテ3:18)と伝え、またイエスご自身が十字架で流される血を「罪を赦すために多くの人のために流されるもの」と話されています。ところで全能の神なら他に方法がなかったのか、もっと簡単で犠牲のいらない方法がと疑問に思う方もおられることでしょう。人が集まり共に暮らすところ、その社会のルールに従うことで秩序は保たれます。神に罪を犯すことは律法侵害であり道徳秩序全体を狂わせます。神は全能です。しかし、ご自身のご性質と矛盾することは行われません。どのようにして神は正義にもとることなく罪人を赦すことができるでしょうか。愛を損なうことなく罪人を罰することができるでしょうか。神は罪人を赦し、その罪を罰することができるのでしょうか。ただ一つの解決がイエス・キリストの十字架だったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-09-20 22:30:31 (56 ヒット)
メッセージ

「あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12章)
人間と動物の違いは、宗教を持っている点です。宗教は必要か?と言う問いにあなたはどう答えますか?それぞれの回答やその理由には個人の死生観が深く関わってくることでしょう。また人間の存在・あり方をどのようにとらえているかが反映されてきます。不要である、という意見の中には既存の宗教団体・信者の在り方に不満があったり、歴史の中での宗教の犯した過ちを許せないなどの理由からでしょう。必要である、という意見には見えざる大いなる方(力)に対する恐れであったり、死者を弔う葬儀のためなどの理由があげられます。さて日本においてキリスト教は必要か?という問いにはどのような答えがあるでしょうか。在来の宗教が沢山ある中、異国の神を信奉する必要はないと話される方もいらっしゃいますが、日本における宗教の多くは海を渡って伝えられたものであり、それぞれに影響を受け合い育まれてきたのです。一神教の排他性から狭量で独断的だ、と唱える方もいらっしゃいます。日本は多神教で他の宗教には大らかだから平和的だ、と。さて本当にそうでしょうか。日本の歴史を振り返ると政治がらみとはいえ仏教や神道での宗派間での骨肉の争い、特定の宗教団体の殺戮・弾圧は数多くあります。人心をつかむために宗教が政治利用されることは古今東西枚挙にいとまがありませんが、宗教とは根源的なところで‖腓い覆詈(存在)に対する畏れ、∋爐紡个垢覿欧譟△海譴蕕人間の理解を超えた何者かに対する崇拝につながっています。キリスト教はこれに対し、,海寮こΔ反祐屬鯀呂蕕譟∩瓦討鮖拉曚靴討られるお方は唯ひとりの神である。△△覆燭虜瓩亮呂靴隼爐量簑蠅鵬魴茲鰺燭─永遠のいのちを下さるのもキリストのみである。という解答を持っています。あなたにとってキリスト教は、神は必要ですか?その問いを静かにかみしめてみましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-09-12 14:28:40 (73 ヒット)
メッセージ

「信じる者の幸い」(ヨハネ福音書20:27−29)
キリスト教は信頼できるか?と言う問いにあなたはどのような回答を用意しているでしょうか。私はその問いが教会へ向けられているものなら明快に信頼できます!と断言はできません。人のつくる共同体・組織である以上完全ではなく、ときに信頼を損ねる罪過ちを犯すからです。しかし、信仰の対象であるキリストは信頼できる、と断言します(ご利益を期待するなら失望することでしょう。その人の願望と神の計画は異なるものだからです)。その根拠として聖書の神の永遠性と不変性があげられます。時代・状況・民族・国家が異なれば価値観や習慣・習俗は変わって行くものですが、聖書の真理は永遠に変わりません。地域によって異なるローカルルールではなく、不変で普遍的な真理です。また福音書に記されているキリストの人柄(ご性質、ご性格)を知れば、真に信頼できるお方であると知ることができるでしょう。キリストを信じることが出来れば〆瓩赦される、永遠の命を得る(永遠に変わることない神様との関わりを得る)、神の家族とされる(天の国籍を得る)のです。私達自身が罪の代価を支払わなくとも、キリストを信じるだけで神からの承認が得られるのです。神(キリスト)は〇笋鯀んでくださった(ヨハネ15:16)、∋笋鯊臉擇砲靴討ださっている(イザヤ44:3)お方です。競争社会の中で絶えず比較され、人の価値は貶められ歪められる一方です。見下される人の世において、神の私達に対する慈しみは深く、「わたしの目にはあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」この神の私達に対する評価を聞き、世間では奇異に思われる方もいるでしょう。人それぞれ価値観が異なれば物事の視点も違います。ある物に対する強い思い入れが評価額となり、市場価格とは異なる値をつける人もいます。永遠に変わることのない神は、あなたが何者であろうと、ずっと探していたかけがえのない宝ものとして喜ばれる方です。神のあわれみと恵みを知り、このお方を信じることが出来れば幸いです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-09-07 22:50:02 (58 ヒット)
メッセージ

「失望せず祈るために」(ルカ18:1~8)
やもめと裁判官のたとえ話から学びます。イエス様がこのたとえ話をされた意図は「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ということであり、それがたとえ話の冒頭に記されています。ルカの福音書などのイエス様のたとえ話は、宗教的であることと倫理的でないこと、そのギャップにより印象を取り違えたり、文化的背景を知らなかったりすると現代の私達には意味不明になることがままあります。イエス様は17章後半にて「神の国」、人の子、終末について語っておられます。この世の審判の日が来ることを聞いて不安に感じ動揺する弟子たちと、質問したパリサイ人に向けて、厳しい現実の戦いの中で失望せず信仰に立って祈るべきであることを教えられるためにたとえを用いられたのです。登場人物は裁判官一人と訴える女性が一人。当時、ユダヤ人裁判官は3人制でした。ところがここに出てくるのは1人ですからローマから派遣された裁判官で、1人で判決を下すことの出来る立場にあると推測できます。すると「神を恐れず、人を人とも思わない」という言葉がわかります。支配する側の驕り高ぶり。いかに不正を働いて財産を増やすかに腐心し、裁判によって正義を実現するなどどうでもいい、そのような裁判官です。そこに理不尽な苦しみの中にいる一人の女性がこの裁判官に訴えてきました。毎日、何度も訴えに来ますが有利な判決を下すよう手回す賄賂などはありません。しかし、こう毎度来られたら自分に悪いうわさがたっては面倒が起こる。疑われてローマに更迭なんてことになったら、それこそ大変。面子がつぶれる。この辺で裁判を開いてこのやもめが来ないようにしてしまおう。不正な裁判官でさえこのように一生懸命に訴えてくる人に対して渋々ながらも動こうしたのです。私達を選び、愛してくださる神様はなおさら信じ従おうとする者を捨て置かれません。「私の目にはあなたは効果で尊い。わたしはあなたを愛している(イザ44:3)」信仰の戦いの中を歩まんとする私たちに対し神様は正しい裁きをつけないで放っておくはずがない。私たちは困難にあっても信仰を捨てて滅びる者ではなく信仰に立って命を得る者でありたいと思います。失望せず期待し祈ろうではありませんか。


« 1 2 (3) 4 5 6 ... 72 »
ID : Pass :