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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-06-13 22:49:26 (44 ヒット)
メッセージ

「神の御前に立ち返る祈り」(使徒行伝2:14〜21)
ユダヤ人は五旬節の時にはエルサレム周辺の男性は皆参加するように決められていました。熱心な、敬虔な信者が世界中から集まり、律法を与えられたことを感謝する祭りでした。聖霊に満たされた者が口々に外国の言葉で神を誉めたたえ始めたのを見た人々の中には、酒で酔っ払っているとあざける人もいました。旧約聖書の中では異言を語るという現象は記されていません。神の臨在・聖霊の働きの象徴として炎や風が用いられることはあります。また過去に神の御霊なる聖霊に満たされた人々が預言を語る(民数11:25、26)こともありましたが、歴史的な事柄が目の前で起こっているとは思いもよらなかったでしょう。そこでペテロと弟子たちは立ち上がり、これは神が預言者ヨエルを用いて語られた預言の成就であると話しました。ヨエルの時代、自然災害やいなごによる農作物被害で完膚なきまでに叩きのめされましたが、神は回復と復興を約束されました。そして神が御霊を注ぐ前に促しているのは心からの悔い改めと(ヨエ2:12-14)皆で集まってきよめをし、礼拝をささげる(ヨエ2:15-17)ことでした。ペンテコステの日に聖霊が注がれたのは、これらの条件も満たされたからでしょう。イエス・キリストを信じ、従わんとする人々が一所に集い、心を裂くようにへりくだって神に立ち返るため祈りに専念していたところに、神の預言・イエスの約束の聖霊が注がれたのです。この出来事は過去のことにとどまらず、今、私たちも体験することの出来る約束と受け止めましょう。断食、涙、嘆きによる悔い改め、それらはできるだけ遠ざけたいものかもしれません。しかし心が頑なで高慢であると、私たちの心に臨もうとする聖霊を拒み続けることになります。神はへりくだって近づこうとする者、心を開き神を求める者を喜んで迎え入れてくださるお方です。神の息が死体の上に吹いた時に新しいいのちに満たされたように(エゼキエル37:9-14)、聖霊の風は砕かれた魂が体験し得る恵みと新しいいのちの喜びをもたらすのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-05-29 10:10:51 (38 ヒット)
メッセージ

「はじまりの時」(使徒行伝2:1〜13)
使徒行伝はイエスが天に上げられた後、弟子たちがどのように働いたか、教会の歴史を記した書物です。使徒行伝は医者ルカが書いたものです。ルカの福音書の2章にはイエスの誕生について、使徒行伝2章には教会の誕生について詳しく書かれています。著者が共通して記したかったのは、キリストの誕生の際も教会の始まりにも、聖霊の豊かな働きがあったということです。また「月が満ちて」イエスが誕生されたように、五旬節の時に一同が聖霊に満たされたのは、「時が満ち」たからです。今までにはなかった事が突然に始まったので人々は驚きますが、目に見えない所でも神は「働き続けて
」おられ、その時が満ちるまで静かに待っておられるのです。イエスが天に上った後、弟子たちは御言葉に従い祈りに専念して事が起こるのを「待って」いました。そして祈りを積み上げ時が満ちた瞬間、「突然」激しい風が吹いてきたのです。教会の始まりは聖霊の激しい風のような降臨によってもたらされ、一人ひとりが他国の言葉で一斉に語り出し、教会の誕生に産声を上げたのです。聖霊に満たされて最初に行ったことが神をほめたたえた、ということは大切なことです。自分の知らない言葉で聖霊が話させるままに語ったのは、自分の舌を聖霊にゆだねるように、教会のわざは神がとらえられ御霊が中心となることを示しています。イエスは公生涯の最初に荒野を40日の間、御霊に「引き回され」ました。聖霊に導かれた進む先は、試練の道かもしれません。しかし
イエスは恐れたでしょうか。聖霊が備えられたご自身の道を歩まれたのです。弟子たちもまた聖霊に満たされ、イエスが「わたしの証人となる」とおっしゃられたように、まさに聖霊降臨という預言の成就の証人となって、福音を携えて世に出て行ったのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-05-25 10:56:00 (41 ヒット)
メッセージ

「イエスのあわれみ」(ルカ福音書7:11〜17)
イエスと弟子たちはナインという町に入ろうとしていました。一方では一人息子に死なれた母親とその一行が、葬りのため棺とともに町の外へ出ようとしていました。情が深い人々がどれだけたくさん寄り添ってくれたとしても、人間には死という問題は解決できません。しかしイエスが「泣かなくてもよい」「若者よ。さあ起きなさい」と声をかけられると死んだはずの息子は生き返り、葬りに向かっていた人々は方向転換し、町へと戻って行ったのです。死からいのちへと変えられた奇蹟が、涙にぬれ悲しんでいる人々を、喜びをもって神を賛美する姿に変えられたのです。人々は「神が顧みてくださったのだ」と言いました。「顧みる」と訳された言葉には「お世話する、心を配る、訪れる」というような意味があります。ルカ1:78でのザカリヤの賛美にも使われている言葉です。人々は旧約聖書でエリヤがやもめの一人息子を生き返らせた奇蹟を思い出し、ここでイエスがなされた御業は神が訪れて関わってくださった、神があわれんでくださったと見たのです。イエスは息子に死なれた母親に深い同情(あわれみ)を寄せられました。(あわれみ)=内臓が引きちぎられるような痛みをともなって彼女の痛みに寄り添われたのです。彼女の悲しみをくみ取った上で「泣かなくてもよい」と話されました。暗闇の死の陰を歩む者に声をかけられ、いのちの光へと引き上げてくださるのがイエス・キリストです。キリストはナインの町に訪れたように私たち一人ひとりの心にも訪れてくださいます。神の御前にその心を注ぎだして流した涙は、ただ地に落ちるだけではありません。イエスはその悲しみに深く同情し、共感し、くみ取った上で「泣かなくてもよい」と声をかけられる方です。その語りかけは死からいのちへ、暗闇から光へ、悲しみ嘆きから喜びへ変えるものなのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-05-18 15:13:20 (34 ヒット)
メッセージ

「イエスの権威」(マタイ福音書28:18)
イエス様は大工のヨセフの子として成長し、やがて3年半の公生涯において聖書のこと、神の国について語られました(マタイ7:29)。その当時、聖書の専門家である律法学者やパリサイ派の人々よりも権威ある者のように教えられたのです。また回復に困難な病い、先天性の疾患さえもいやす権威を持っておられました。そして中風の人に「あなたの罪はゆるされた」と宣言し、起きて歩くよう命じられました(マタイ9:2−8)。つまり、イエス様は教える権威、いやす権威、罪を赦す権威を持っておられたのです。死に打ち勝ちよみがえられたイエス様は「私は天においても地においても、一切の権威が授けられた」とおっしゃいました。イスラエルに留まらない、この地上全てのものに対する権威をお持ちである、と聞いた弟子達はその権威の大きさに驚嘆し、自分達の信じていたお方はやはり救い主であったと喜びました。黙示録1章では全能者なる神は「私はアルファでありオメガである」ギリシャ語で最初であり最後である、世界創造の始めから時代の行き着く終わりまでのあらゆるものの支配者であると書かれています。人間には与えられていない権威、死かいのちか、天国か地獄かそれを決めるかぎ、主権を持っておられるお方。そのような方は天においても地においても、復活の主ただ一人です。人の世においていかなる富と権力を築こうと、いのちの権威を持つことはできません。世界で最も権威あるお方が、私達一人ひとりに働きかけ、国々を、歴史を支配し、導いておられるのです。私達は時に大きな悩みを前に神様を小さくとらえていないでしょうか。あなたが信頼しているお方を、自分自身のように小さく考えてはなりません。天においても地においても一切の権威を持つお方が、共にいて下さると約束されているのです。信仰による勇気をいただきましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-05-10 14:17:10 (131 ヒット)
メッセージ

「イエスの問い」(ヨハネ福音書21:15〜25)
イースターからヨハネの福音書を読み進めてきましたが、イエスの復活の出来事とは神の祝福の約束であり、私達の心に喜びと平安を与えるものだと語ってまいりました。この21章は弟子達の回復の物語と言えます。イエスは「あなたは私を愛するか」とペテロに問いかけました。愛するとは自己実現や自己満足のためではなく自己犠牲や痛みを伴うものであり、それを知った上で全てを引き受ける、それが聖書の愛だと学んでまいりました。「私はあなたを愛します」と伴侶に、家族に、友に、言うことができるでしょうか。またそのような関係性を築いているでしょうか。軽々しく「愛する」と断言できないかもしれません。「(全てを受け入れる自信はないが)愛する努力をしてみます」などの答えがあるかもしれません。ペテロの答えは「私の心はあなたがご存知です」というものでした。自分はイエスの公生涯に付き添いその教えに触れ御業を見、その奇蹟にあずかってもいたのに、イエスの苦しむ姿を見て3度も知らないと否んで逃げ出した、その罪の咎めに心が内向きになっていたペテロ。思考が閉鎖的になると、未来に向けて建設的に物事を考えていくことは困難です。「自分」ばかりを見つめていたペテロに、イエスは「あなたは私を愛するか」という問いによって自分の外側、イエスご自身に目を向けるように、イエスとの関係を思い起こさせられたのです。弱さ、至らなさだらけの人間であっても、神の無条件の愛は全ての人に向けられたものであり、ペテロに対してもずーっと変わらず愛を注ぎ続けられていたのです。そしてペテロに改めて使命をお与えになられました。そして未来に殉教があることを予告されます。人を説得する方法として、目先の利得をちらつかせ、拒んだ場合の害を吹き込んで従わせることもあります。けれどイエスは恐れによってではなくご利益によってではなく、愛の応答として従うかと問われたのです。イエスに従うこととイエスを愛することは深く結び付いています。イエスに従うことは苦難があると明言されています。しかし問題に向き合い、乗り越える勇気が与えられるのです。その問題によって信仰が、人生が豊かにされるのです。


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