アーカイブ | RSS |
投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-07-14 10:44:38 (708 ヒット)
メッセージ

「恵みの計画」創世記38章
ヤコブの家族のうちに起こった出来事を学んでいます。38章はヨセフの物語に挿入された形ですが、マタイ福音書のキリストの系図に登場する2人の人物:ユダとタマルのお話です。ユダは父ヤコブの家を出て、カナンの地で結婚し3人の男子を得ます。子どもたちは成人し長子エルはタマルと結婚します。しかしエルは悪い人だったので神に打たれ死んでしまいます。子がなく死んでしまった兄エルの家系が途絶えないため、弟オナンは兄嫁を娶りました。しかし出来た子どもを兄の跡継ぎとするレビラート婚(当時は地域の習慣)の義務をオナンは果たそうとしないため、神はオナンをも打たれました。息子二人の死をタマルに原因の一部があるのではないかと考えたユダは、三男シラとタマルとの結婚は理由をつけて先延ばしにしていました。そこでタマルは遊女になりすまし、義父ユダと性的関係を持ち妊娠します。当時の文化・風習を知らなければ理解に苦しむ出来事です。やがてタマルは双子を生みペレヅ(破れ)、ゼラ(暁)と名付けられます。主イエスはヨセフの子孫ではなく、弟を奴隷として売ったユダの子孫としてこの地上に来られました。タマルは姦淫したと誤解され命の危険に遭うかもしれないが、家系を絶やしてはならないと自分の義務を懸命に果たそうとしました。救い主の家系は決して正しい歩みをした立派な人ばかりではありません。人間は罪と汚れのうちに生まれてくる、だからこそ、神は罪人を救うため、人類の罪による破れ目をふさぐため、キリストはペレヅ(破れ)の系統から誕生するという恵みの計画を立てられたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-07-06 06:28:08 (705 ヒット)
メッセージ

「救いの計画」 創世記37章12〜36節
父ヤコブに命じられ、ヨセフは羊を牧し宿営している兄達の様子を見に行きました。兄達は先にヨセフが近づいてくるのを見つけ、彼を殺そうと謀ります。しかしルベンのとりなしと、ミデヤンの隊商に奴隷として売るというユダの提案が取られ、ヨセフはエジプトへ連れて行かれました。父ヤコブ、兄達、ヨセフそれぞれに言い分があります。各々が自分の感情に従った結果、兄弟間での殺意、奴隷として売るという倫理的に非情に忌まわしい行為を生み、その結果、長い喪失感と後悔だけが残ったのです。しかし後に、ヨセフは飢饉の時にエジプトで一族を救う為に遣わされたことを知るのです。この出来事から学ぶことは、人生には神のご計画があり、私達が経験する出来事、罪の結果起こる事件、それらも神は御手によって益に用いられるということです。この事件とイエス・キリストの十字架を重ね合わせてみましょう。イエスを十字架につけて殺した人々は、自分達が正しいと思っていました。民衆を惑わし、社会を乱すこの人物を殺すことによって、宗教的秩序と自分達の権威を守ろうとしたのです。イエスを憎み、妬み、亡き者にする、その計画は成功しました。しかし人々の悪意にまみれた十字架が、神により人々の救いの御業に用いられたのです。色々な出来事に翻弄される私達ですが、神は私達の人生にご計画があり、未来を備えていてくださっているということを心に留めて歩みましょう。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-07-01 11:36:02 (694 ヒット)
メッセージ

「言葉を心にとめる」 創世記37章1〜11節
ヤコブは最も愛した妻ラケルの初めの子であるヨセフを溺愛していました。彼の上に10人の兄達がいるにも関わらず、ヨセフに相続者としてのしるしである長袖の服を作って与えるほどでした。兄達はヨセフを妬み、穏やかに彼と接することができません。当のヨセフは天真爛漫に、親や兄達が自分を拝む夢を見たことを語ったりして、兄達の憎しみをあおりました。人間関係を築いていく上で、愛は大切な要素です。しかしヤコブの偏愛が原因でヤコブと息子達、兄達とヨセフ、それぞれの関係性は歪んだまま月日が流れ、ついに兄達がヨセフを奴隷としてエジプトへ売る悲劇へつながります。ヨセフはその後、エジプトの総理大臣となり、親兄弟達と再会します。解決するのは困難に思えた家庭のひずみも修復されました。そこに辿り着くまで、誰もそのような未来を知ることはできませんでした。しかしヨセフが夢について語った時、ヤコブはその出来事を心に留めていました。神のご計画はあまりにも壮大で深淵で、私達はその時には全てを知ることはできません。聖書全体から学ぶならば、信仰の先輩達の態度から知恵を得ることができます。私達も困難さを抱えて生きる時、状況を越えて働かれる神の御言葉を心に留めましょう。後に人生を振り返った時、大いなる御手の導きにより歩んでいたと知ることができます。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-07-01 11:34:25 (700 ヒット)
メッセージ

「イエスキリストの名によって」 使徒行伝3章1〜16節
イエスは神の御心を教えられることと、病人のいやし・悪霊の追い出しをされることを、車の両輪のようにして力ある御業を進められました。不思議な業により神の御教えをあきらかにする、という伝道の原型はモーセの10の奇蹟の頃から今日までも続いています。旧約から新約の時代に至るまで、様々な箇所で聖霊は働いておられました。預言者は神の霊に満たされた人々による働きでした。その聖霊が「あなた方に臨むとき、あなた方は力を受ける」とイエスは弟子達に言われました。美しの門で、生まれつき足の弱い男にペテロとヨハネが「金や銀は私にはないが、私にあるものをあげよう」と言えたのは、キリストが弟子達にお与えになった権威・病める者をいやす聖霊の力によってでした。信仰は、自分自身が権威を手に入れるのではなく「キリストの名によって」いやし主であるキリストに『仕える喜び』をもたらすのです。そして、信仰も神様から与えられるものです。人に依存している状況にある足の弱い人に今、必要なものは体のいやしだけでなく、自立して神様に目を向けるための「信仰」でした。自分の弱さを自覚することと、依存することは別です。人間関係に失望し、自分自身を見失い、もう進めないと思っているその人を、無条件で受け入れて下さる神様が回復を与え、立ち上がらせて下さる。その働きをされるのが聖霊様です。私達もイエスキリストの名によって聖霊を受け、様々なことを乗り越えさせて下さる力を与えてくださいと祈りましょう。信仰生活の中で、御霊の実を豊かに結ぶことができますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-07-01 11:32:12 (733 ヒット)
メッセージ

「御霊によって」使徒行伝2章1〜13節
イエスを信じる人々はイエスの言葉に従ってエルサレムにて祈りをささげていました。すると約束の通り聖霊が下ったのです。聖霊に満たされた人々は口々に異国の言葉で神をほめたたえ出しました。このペンテコステの出来事を教会の起源とする考えがあります。自分の思いではなく御霊が語らせるままに、聖霊にとらえられ神をほめたたえることから教会が始まったのです。イエスの公生涯も聖霊にとらえられ、導かれ、始まりました。イエスが昇天する前に弟子たちに約束したのは「聖霊が下る」「あなたがたは力を受ける」「わたしの証人となる」ことでした(1:4〜8)。時が満ち、信じる人々に聖霊が下り、彼らは力を受け、福音を携え世に出ていったのです。ペンテコステの出来事を目の当たりにした他の人々は驚き、戸惑う人、あざける人など様々な反応がありました。ペテロは十字架と復活の出来事はすでに聖書に予告されていた出来事であり、そのキリストはイエスですと語り、悔い改めることを大胆に迫りました。人々は自分の罪深さにおののき、救いと赦しを求め悔い改めたのです。悔い改めた人々によって教会は形成されていきました。教会の働きは聖霊によって始まり、今日までその働きは続いているのです。私たちの歩みに聖霊の導きがありますように。


« 1 ... 60 61 62 (63) 64 65 66 ... 119 »
ID : Pass :