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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-07-01 11:32:12 (738 ヒット)
メッセージ

「御霊によって」使徒行伝2章1〜13節
イエスを信じる人々はイエスの言葉に従ってエルサレムにて祈りをささげていました。すると約束の通り聖霊が下ったのです。聖霊に満たされた人々は口々に異国の言葉で神をほめたたえ出しました。このペンテコステの出来事を教会の起源とする考えがあります。自分の思いではなく御霊が語らせるままに、聖霊にとらえられ神をほめたたえることから教会が始まったのです。イエスの公生涯も聖霊にとらえられ、導かれ、始まりました。イエスが昇天する前に弟子たちに約束したのは「聖霊が下る」「あなたがたは力を受ける」「わたしの証人となる」ことでした(1:4〜8)。時が満ち、信じる人々に聖霊が下り、彼らは力を受け、福音を携え世に出ていったのです。ペンテコステの出来事を目の当たりにした他の人々は驚き、戸惑う人、あざける人など様々な反応がありました。ペテロは十字架と復活の出来事はすでに聖書に予告されていた出来事であり、そのキリストはイエスですと語り、悔い改めることを大胆に迫りました。人々は自分の罪深さにおののき、救いと赦しを求め悔い改めたのです。悔い改めた人々によって教会は形成されていきました。教会の働きは聖霊によって始まり、今日までその働きは続いているのです。私たちの歩みに聖霊の導きがありますように。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-06-10 11:10:51 (705 ヒット)
メッセージ

「顧みられる神」列王記下4章8〜37節
2週続けて、貧しさゆえに苦境に立たされた母子を、預言者を通して神が助けられた奇蹟の話でした。本日の箇所では裕福な家庭で暮らしている女性が、預言者エリシャをもてなしたことから思いがけず子どもが与えられた奇蹟、さらにその息子が死に、預言者の祈りによって生き返る奇蹟の話です。貧しさ、子のいない寂しさ、愛する者を突然喪うなど、人は様々な辛さを抱えて生きています。人の世はままならない事が多く、本当に神の助けと導きがなければ心と霊性を保っていくことは困難です。エリシャは戸を閉め、静かな所で神の前にへりくだり切に祈り求めました。義人の祈りには力があります。エリシャと母の必死の願いは神に受け入れられ、息子は生き返ります。今、私たちは信仰によって義とされました。キリストの名による祈りには、力があります。主は今も生きておられると、確信を持って歩んでまいりましょう。時に私たちは神様から与えられた祝福を手放さなければならないことがあるかもしれません。しかし覚えておきたいのは、神様はそれで終わらせないということです。辛い出来事の後で明らかになる真実、分かることができる神の愛があるからです。悲しみは人の数だけそれぞれにありますが、神は私たち一人ひとりの人生を慈しみ深く顧みられるお方です。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-06-02 06:40:24 (717 ヒット)
メッセージ

5/21説教「養われる神」列王記下4章1〜7節
エリシャの仲間である一人の預言者が亡くなりました。妻と2人の息子、それと借金を残して世を去ったのです。その借金によって息子たちは債権者に奴隷にされそうです。預言者の妻はエリシャを訪ね、神を信じ仕えていた者とその家族の境遇を訴えました。預言者に何がしかの地位や生活の保障があったわけではありません。生活が好転することなく借金は増え続け、このような次第に陥ったのです。エリシャは債権者の律法違反(同胞を奴隷にしてはならない)に憤慨して貸主に交渉したり、義人が生きて行くのに困難な世の構造を改革しようとはしませんでした。ただ彼女に、今手元に何があるか尋ねました。残っていた物は僅か1瓶の油だけです。エリシャは隣人からありったけの器を借りること、人目に触れぬよう戸内でその器に油を注ぐことを話しました。彼女と子どもたちはエリシャの言葉に従ったところ、油は用意した全ての器に満ち、その油を売却することによって借金を支払い、残りの金はその後の生活を支えたのです。何か特別な物を与えて生活を劇的に変えられたのではなく、今ある物を用いられ、人々の注目しない所で奇蹟を行い、必要を満たされました。知られざる一人の預言者でしたが、その小さな家族に神は寄り添われ、その一家の営みを守られたのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-05-25 10:44:17 (835 ヒット)
メッセージ

アハブ王の治世、フェニキヤ人の王妃イザベルの強い影響のもとバアル崇拝がイスラエルにおいて行われていました。交易による北イスラエルの繁栄は、慈雨の神バアルによるものだと民衆も信じた、そのような時代に神の人として用いられたのが預言者エリヤです。イスラエルを干ばつによって打たれた神は、ザレパテ(異国)の寡婦を用いてエリヤを養われると話されました。エリヤはその言葉に従いザレパテへ向かい、神の言葉通りに一人の寡婦に出会いました。干ばつの被害はこの地にも及び、女性は家にあるわずかな物を食したら息子と死ぬつもりだったとエリヤに包み隠さず話します。神はエリヤとこの女性、その息子を守られたので、かめの粉は尽きず、油は絶えませんでした。しかし神に従いながらも突然の不幸に遭い、エリヤに恨みごとを言いますが、息子の生き返りに彼女は「主の言葉が真実であることを知」るのです。神が用いられたのは異邦人の、力なき一人の女性でした。律法では貧しい人、旅人、寡婦、聖書文化の及んでいない異邦人など弱者を救済する福祉の精神が根底にあります。神のご計画では、国家に対して預言者としての使命を果たすエリヤを養うことも、彼女のような小さき者を庇護されることも同じなのです。神の取り扱いに「恐れることはありません。」


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-05-25 10:42:27 (777 ヒット)
メッセージ

「共に歩まれたイエス」ルカ24:13〜32
弟子達は師イエスの十字架後、恐れと不安に苛まれました。信頼し、期待した人物の死は彼らを失望させたことでしょう。そこにマリヤらによるイエスのよみがえりの証言は、一部に混乱を来たらせました。そのような中、エマオへ向かう2人に主イエスは話しかけました。旧約聖書全体からキリストの死と復活を説明したのです。聖書の知識と目の前の出来事が結びつき、繋がっていることに気づき理解していくのです。真理に目覚める知的・霊的興奮を「心が燃えたではないか」と後述しています。復活の主イエスは彼らに「証人」として十字架と復活を宣べ伝えるように命じました。復活の証人として立てられることで、自分たちの人生の意味を彼らに自覚させ神のご計画、神の歴史の中に自分たちも入れられていることを知るのです。神の救いの歴史は多くの人々が関わり、繋がり、つなぎ合わせてきた歴史です。私たちも繋いでいくことで神に用いられているのです。クレオパら2人の会話の中に入って来られた復活の主イエスは、私たちが救いをお証しする間に入り助けてくださるお方です。主イエスが心に触れてくださり「心が燃えていたではないか」という経験を積み重ねることで御言葉を理解していくことは、その人の人生を、信仰を豊かにするのです。


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