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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-05-05 11:32:38 (802 ヒット)
メッセージ

「イエスを神の子と信ずるため」ヨハネ20:19〜30
トマスの言動(11、14章)を見ると、彼は非常に率直な人間だと知ることができます。また人の話を鵜呑みにせず、自身の経験を通して理解してゆく人なのでしょう。自身の失敗の経験を人生の糧として成長していくことが出来るのなら、それは彼にとって益です。人の失敗をも自分の人生の益に出来るのが“知恵”です。トマスには聖書の知識とユダヤ文化の背景、イエスと共に歩んだ経験などがありましたが、彼は「復活のイエスを実際に見て触れなければ信じない」と言いました。イエスはトマスと弟子達の前に姿を現し、「見ないで信じる者は幸いである」とおっしゃいました。キリスト教に対して懐疑的な人々が「イエスが今も生きていると証明してみろ、この目で見られたら信じる」と言いますが、当時復活のイエスを見ても疑う人達はいました。条件を提示してそれが遂行された結果、信仰を持つのではなく、信仰の決断を先行させることの幸いをイエスは話されました。「信じてイエスの名により永遠のいのちを得るため」信じることの幸いを得てほしい。それが父(神)の御思いではないでしょうか。信仰は決断と経験。キリストを信じて共に歩んで行く中で体験的に御言葉を理解し、信仰は豊かにされていくのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-04-24 10:47:00 (733 ヒット)
メッセージ

『聖書の言葉が全うされる』ヨハネ19章23〜37節
イエスは十字架上で「すべてが終わった」と言われ、息を引き取りました。新改訳では「完了した」と訳されています。ヨハネによる福音書では、イエスが引き渡され十字架で死なれるまでの描写の中に、それらの出来事は旧約聖書のさまざまな預言の成就であることが記されています。すなわち、十字架によって罪の贖いは全て完了した、イエスの生涯の目的であり果たすべき任務は十字架上で完遂した、ということです。ゆえに、人が救われるため・天国へ行くために必要なものは信仰のみなのです。イエス様がすでに十字架によってすべての働きを完了されたので、私達は信仰プラスαの行いをする必要はないのです。天国人とは、神に罪を赦された者のことです。イエス様を信じた後も天国に行くために努力し続け、修行を積まなければならないのではありません。では、主に愛された者らしく生きるにはどうすればよいのでしょうか。「地の塩」「世の光」として信仰の高嶺を目指すためには、聖書の言葉に根差さなければなりません。神の言葉に根を広げ深めていく中でキリストの愛を知り、キリストに倣(なら)って生きることで、私達の働きも全うされるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-04-12 09:15:58 (916 ヒット)
メッセージ

『主が行く道』 ヨハネ13:31〜35
「愛の戒め」といわれる箇所です。ここから弟子達の質問に答える形で13、14章は進んでいきます。私達は愛することに困難を覚える事があります。本当に愛が無いと自覚し、自分をさいなむ事もしばしばです。しかしイエスは私達に出来ないことを無理強いされたのでしょうか。真似ると学ぶは近似しています。良い模範があれば真似ることが出来ます。イエスの生涯を学ぶことで私達は「愛することが出来る者」へと変えられてゆくでしょう。能力や財産、家柄や名誉など競争社会の中で相対的評価にさらされ揉まれた私達は、自分自身そして人をも相対的に見がちです。しかしイエスはかけがえのない一人の人として私(私達)と関わってくださるお方です。比較相対的な基準ではなく絶対的な個人として関わって下さったのです。与えるということは自分から離れ出ていくことです。キリストの愛は見返りや報いを求めるものではなく、一方的に与え、出ていく痛みを伴う犠牲の愛です。そのキリストの愛が目に見える形で示されたのが十字架刑による身代わりの死でした。主が歩んだ道は十字架を通して示されました。「互いに愛し合いなさい」イエスの戒めは私達の生きる道をも示されたのです。主イエスに倣(なら)う者として、主の道を歩もうではありませんか。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-04-07 09:56:45 (906 ヒット)
メッセージ

『ラザロよ、出てきなさい』 ヨハネ11:1〜44
何が嘘で、何が真か。本当の事を知り得たならば未来は変わっていたかもしれない。その仮定は、知り得たならば別の判断ができたという期待があります。しかし未来を決定的に変える情報を知り得たとしても、理解し信じなければ十分に活かせません。イエスがラザロの死はあなたがたが(イエスを)信じるためだとおっしゃいました。しかし人々は思いました。「この人でもラザロを死なせないようにはできなかった(死の前には無力だ)」ラザロの姉妹マルタもマリヤも同音に「あなたがここにいたならラザロは死ななかっただろう」と。死んだら終わり。死ぬまでに何とかしてほしかった。それが人々の心の声です。それは「もし〜ならば出来た」とイエスに対する期待があったことをうかがい知る事が出来ますが、彼女たちがイエスの意図・目的を真に理解せず、イエスに付与されている権威を知らなかったことを露呈します。イエスは激しく感動し、心を騒がせました。人々に同情し憐れんだだけでなく、激しく憤っておられたのです。人を滅びへ向かわせ死へと至らせる罪に対し、またイエスに対する無理解からくる不信仰に怒られたのです。「ラザロよ、出てきなさい」イエスのことばは、死んだ者にいのちを与えてよみがえらせ、闇の中に迷える者にとって光となり、倒れている者を立ち上がらせ生かす声でした。「あなたはわたしを信じるか」私たちの未来(死の向こう側)を握るイエス・キリストが今日も私たちに語られます。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2017-04-01 22:45:00 (692 ヒット)
メッセージ

『わたしだ、恐れることはない』 ヨハネ6:15〜21
弟子たちが舟で海(ガリラヤ湖)を渡りカペナウムへ行こうとした時、イエスは乗っていませんでした。群衆がパンの奇蹟を見てイエスを王にかつぎあげようとしたため、弟子達を強いて舟に乗りこませ、ひとり山へ退いたからです。元漁師の弟子たちは舟の扱いに慣れていましたが、同時に嵐の怖さも身を持って知っていました。逆風と波に悩まされなかなか対岸にたどり着けず、イエスの言葉に従って舟に乗ったのに何故このようなことになったのか、こんな時に何故イエスはそばにいてくれないのか、と恐れと共に信仰の揺さぶりもあったことでしょう。その時、荒れた海の上を歩いて来られるイエスを見て、弟子達は幽霊だと恐れました。イエスが言われた「わたしだ、恐れることはない」という言葉はギリシャ訳では「わたしはあってあるもの」という出エジプトでの神の顕現と同じ意味です。民衆が求めた政治的指導者ではなく、人が治められない自然を支配しておられる神、マナを降らせ食を与え続けイスラエルの命を生かした神の顕現を弟子達はイエスに見たのです。計り知れない未来に対する不安や不幸の予測に心を痛めている私達に、「わたしこそ、あなたの咎を消す者である(イザヤ43:25)」と言われる主が共におられます。「わたしだ、恐れることはない」この言葉は今日も私達に語りかけられているのです。


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