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投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-11-03 22:29:45 (34 ヒット)
メッセージ

「主の聖餐」ルカ福音書22:17〜20
あなたにとって聖餐式は重要ですか。聖餐式が恵みを受ける唯一の手段ではありませんが、重要なものです。キリスト者が行う大切なものとして、礼拝する・祈る・聖書を学ぶ・聖餐を守る、などがあります。信仰生活を送る上で、聖餐式の意味・目的を知っておればさらに感謝出来ることでしょう。聖餐は主イエス・キリストが定め、これを守り行うように命じられたものです。主の晩餐はキリストの教会にとって十字架の贖いを記念するものです。十字架と復活はすべて私たちを罪と死の支配から解放するために行われました。聖餐を行うたびにこれを覚え、私たちは新しい契約のもとにある民であることを確認するのです。イエスは言いました「これはわたしのからだです〜これはわたしの〜血です」キリストのことばを信じる信仰は、キリストご自身のいのちによって私たちを霊的に養ってくださることを教えています。聖書は、信じる者はキリストを頭とした体であり、またぶどうの木の枝であるとの例えを用いて、キリストとの繋がりと一体感を説明しています。私たちは自分がキリストの体であることを、聖なる交わりによって自分自身と周りの人とに明らかにします。罪びとであった者が主の一方的な愛によって贖われ、神の物とされたことを思い出し、私たちも自分自身と他者を大切なものとして受け入れることを願います。主の晩餐はかつてギリシャ語で「ユーカリスト(感謝)」と呼ばれました。キリストが私たちのためにご自身を犠牲とされたように私たちも神に対し生きた供え物としてささげるのです。「主が来られる日まで、主の死を告げ知らせる」二千年前から守られた主の命令、この聖餐式のたびに私たちは主が栄光のうちに来られる望みを新たにされ、力と愛と献身と信仰が確かにされるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-10-24 22:49:46 (37 ヒット)
メッセージ

「礼拝者として」ヨハネ福音書4:23、24
現代において礼拝などの儀式にどの様な意味があるのでしょうか。経済が優先的に追求される昨今、心の奥の霊的活動に価値があるのか問われたとき皆さんはどのような答えを用意しておられるでしょうか。人生の目的の一つに、神に礼拝をささげることがあげられます。神はまことに褒め称えられるにふさわしいお方です。私達が神に感謝と喜びをささげる時、人は神に触れられ、語りかけられ教えられ、神の臨在を経験します。神は今も私たちと共にいて下さるという体験です。「祈りを聞いて下さったからお返しに礼拝してあげる」「礼拝したら、信じたらいいことあるらしい」という動機で礼拝するのでは目的が異なります。ご利益追求の信心ではおのずと期待は失望へ変わるでしょう。ではどのように礼拝すべきでしょうか。キリスト者の礼拝には様々な形態があり、これが唯一で正しい形式だと断言はできません。しかし、大切なところは共通しています。自分と向き合い悔い改め、信頼と信仰を持って神を仰ぎ見るのです。その礼拝を通して神との関係性がより深く豊かになるのです。また共に神を礼拝する者は神の家族として、信仰の友としての関係性へ導き入れられるのです。会堂で行う日曜の礼拝式だけが礼拝ではありません。日々の生活の中でも神へ感謝を祈り賛美ささげるならそれは礼拝です。しかし、忙しさや物質的関心、雑念がひとりでの礼拝にブレーキをかけ、霊的関心を覆ってきます。日常の慌ただしさは祈りと賛美を忘れさせ、かき消してしまうほどです。こうした礼拝者の困難を克服するため安息を守る必要があります。神が定められた秩序の中に信仰者の肉体的・精神的・霊性の回復も入れられるのです。慌ただしい日常を中断し、礼拝をささげ、神に向き合う中で私たちは信仰者としてより豊かな者とされるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-10-19 11:45:55 (37 ヒット)
メッセージ

「死から命へ」ヨハネによる福音書5章24節
死について考える人に永遠のいのちを伝えようとする時、手ごわいのが虚しさ・諦めという悟りです。「仕方がない‥どうしようもない」それなりに状況や環境を受け入れているように見えますが、枯渇した心の中に希望はありません。同じ出来事であってもキリスト者は状況や環境を受け入れる理由が著しく異なります。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」「神はそれを、良いことのための計らい」と信じていますから希望があるのです。誰でもいずれは地上のいのちを終える時が来ます。死をどのように受け止めるのか。絶望か希望か。諦めるか期待するか。聖書は死の向こう側についてどのように教えているでしょうか。天国か地獄かというような言葉も耳にしますが、イエスは神の国という表現で話されています。神の国に入るといっても場所・空間的にはとらえることができません。神の国とは神の支配されているところです。神を信じた人は、神の家族として神の国(天国)の国籍とともに永遠のいのちが与えられます。永遠のいのちも時間軸でとらえられないものです。神と変わることのない関係性を持つことができると考えれば理解に近づくことでしょう。すると「私は天国人として生きています。肉体が朽ちても私と神様の関わりは変わりません」と言えるのです。やがて主イエスの再臨の時、私たちは復活し栄光の身体に変えられ天に引き上げられると書かれています。死から復活までどう過ごしているのか疑問に思われますが、聖書は「眠っている」と表現しています。「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」時間に捕らわれない神の支配に入り、死という眠りについたキリスト者が目を覚ます時が主イエスの再臨、私たちの復活の時です。私たちは復活の希望を抱き、神に期待し、死という現実と向き合い乗り越えていくことが出来るのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-10-12 20:36:10 (41 ヒット)
メッセージ

「教会へ行こう」ヘブル人への手紙10:19~25
台風の日にこのタイトルですが、今日は教会(信じる者の集い)へ行くことについて考えてみたいと思います。礼拝出席を怠っていることで、キリスト者の身分がはく奪されるわけではありません。ひとりクリスチャンとして生きていくことは可能です。しかし教会に行くように私達を励まし、他の人にも勧める理由を5つ挙げてみます。/世硫搬欧任△襪燭瓩法Ы藺絅リスト者は共同生活に入り、家族と同然の生活の中で信仰を育みました。教会で顔を合わせ共に食事をし、交わりをして、孤独にならないようにします。教えを受けるために:教会は家族であると共に学校の要素もあります。初代教会の使徒たちは教会の実践的管理のために「執事」を任命しました。それは使徒たちが「もっぱらこの奉仕に励むため」にです(使徒6:3-4)。神はある人を牧師または教師として立てられ、信じる者たちが教えを受けて整えられ、キリストのからだを建て上げることを望まれています(エペソ4:11.12)。Jを分かち合うため:キリスト者が真理を受けるのは、祝福と愛を他の人と分かち合うためです。この宝はどんなに分け与えても、無くなることはありません。分かち合う喜びは尽きることがありません。つ艦造鯤櫃弔燭瓩法夜と昼、春夏秋冬、休息と労働、これらによって私達の生活のリズムが生まれます。主が定められた安息日には心と体、霊性を回復するという目的があります。ひたすら神に心を向け、調和と回復を保つために時間を確保する、それが礼拝でもあるのです。ダ蚕馘理由(ヘブル10:25):安息日にや礼拝・集会に参加することはイエスご自身が模範を示されました(ルカ4:16)。イエス様は父なる神様を「霊とまことによって」礼拝するよう教えられました(ヨハネ4:23)。私達の体は聖霊の住む神の宮です。また教会は一人ひとりがキリストの体の一部です。互いに助け合い、仕え合い、祈り合い、励まし合う中でイエス様をさらに知り、さらに主に近づき神との交わりを豊かにすることができるのです。


投稿者 : Otsuka 投稿日時: 2018-10-04 14:49:29 (52 ヒット)
メッセージ

「苦難の問題について」ヨハネ福音書9:1〜3
身をすり減らすような苦しみ、悩み、不条理な迫害など、神が善であるなら何故お許しになるのか?聖書はこの問いに具体的な解決策は明示していません。が、聖書はいかに勇気をもって信仰を働かせ忍耐すべきか、苦難とどう向き合うかに対し解答を持っています。苦難や問題に遭い、その人の在り方が問われる時こそ信仰が活かされる場面であることを教えている箇所はたくさんあります。しかし災いを個人の罪に負わせる風潮が根強くある文化圏では、思わぬ災害や苦難がふりかかった人に対し、「それは罪の結果だ」因果応報だ、と考えがちです。なにがしかの罪の結果、自ら苦難に陥ることもありますが、そればかりが原因とは限りません。そのような時の理由づけとして安易に罪を探すことは人も自分も苦しめることになるでしょう。苦難のない平坦な環境を人は望みますが、神は苦難の中で試行錯誤し、学ぶためにそのような状況・環境を許されました。苦難を経なければ分からないことがあるのです。痛みも同様でしょう。痛みを経験することで危険を察知し、避けることや予防することが出来るようになるのです。また自身が体験することで人の痛みに共感することが出来るのです。勇気、忍耐、憐れみ、同情心のような徳性は苦難により培われていくのです。またこれらと異なる苦難があります。自発的に受ける犠牲的苦難(イザヤ53:4,5)です。それはキリストの十字架です。神の愛と義を体現するため苦難を選びとり、御業を成就されました。創世記においてヨセフが幾重にも経験した苦難は、神の「良いことのための計らい」と認めました。私達も神の愛を忘れることなくキリストに習い歩んでいこうではありませんか。苦難や試練はときに神を疑わせ信仰を損なわせる方向を持つものですが、神はその同じ苦難を用いて信仰を強め、神と愛と力を豊かに経験させてくださるのです。


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