主に大いに用いられたダビデであったが、神殿建設を前に、できる限りのものをささげた。そのことによって、民たちもささげ、たくさんのものが備えられた。しかし、ダビデが祈った祈りは、たいへん謙遜な祈りであった。
ダビデは言っている。喜んでささげたと言えども、「私は、民は何者でしょう。これはもともと主から受けたものにすぎない。」私たちもこのダビデの思いに習わなければならないのではないだろうか。それぞれに様々な考えがあり、いらだちさえ感じている。たとえ時が来て、なんとか建物が仕上がったとして、‘献堂式’において、主の御前に捧げることができるだろうか。
私たちはダビデのように「心にこの意志と精神とをいつまでも保たせて下さい」と祈り、清められて、主の前に進んでまいりましょう。
歴代上29:10?19
2010年8月22日の礼拝メッセージ要約
- 2010-08-22
- メッセージ2010