『日々新鮮に』
イエス様は、パリサイ人などが人に見られるように行う、施し、祈り、断食について、「彼らはその報いを受けてしまっている」、‘偽善者’と厳しく批判される。
偽善的で、形式的になっているユダヤ人たちの祈りの姿勢に反して、イエス様は、新たに誰でも祈る事の出来る“主の祈り”を教えられた。先日、教区会の中で、ルターは、『主の祈りは殉教者』と言ったと学んだ。私たちは、“主の祈り”さえ、形式的、口先だけになっている時がある。
“主の祈り”は、アバ父よ、という呼びかけ、神をほめたたえる言葉、人間の必要を求める祈り、の三部からなっている祈りのお手本である。十分な祈りの時間が取れない時、どう祈ってよいかわからない人も、心を込めて“主の祈り”を祈る時、主は私たちと深く交わって下さるのである。
マタイ6:1?13