4月1日 メッセージ要約

「祝福するために」(ヨハネ福音書20:1?18)
イエスは金曜日に亡くなったため、安息日である土曜に入る前に急きょ遺体を埋葬したので、十分な準備が出来ていませんでした。そのため安息日明けの日曜の朝、遺体を整えようとマグダラのマリヤがお墓へ向かいました。すると墓の入口を塞いでいる石が取り除けられ、イエスの遺体がなくなっていました。通常では考えられない出来事が起こり、あまりの悲しみに心が激しく動揺していたマリヤは、御使いに話しかけられてもそれと気づきません。そんな彼女にイエスは「なぜ泣いているのか、誰を探しているのか」と言われました。主がマリヤの悲しみの心を知らないはずはなく、泣いている理由を尋ねているわけではありません。イエスは過去にナインの町で一人息子が死んだ母親に「もう泣かなくてもよい」と言い、棺に納められている青年を生き返らせる奇蹟を行いました(ルカ7:11?15)。また会堂司のひとり娘の死に目に間に合わなかった時も、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言って娘の手を取り、起き上がらせました(ルカ8:49?56)。これらの2つの生き返りの奇蹟を通して「泣かなくてもよい」と言われたイエス様は、私達の悲しみを知り、涙をぬぐって下さる方です。愛する者の死は、あの時こうしてあげられたら‥という後悔を生じさせ、生きている者の心を責め、嘆きの内にとどまらせてしまうものです。嘆きと悲しみに深く結び付く死を、神は「死を永久に滅ぼし、全ての顔から涙をぬぐう」(イザヤ25:7?9)のです。死を体験されたイエス様ご自身がおっしゃいます「泣かなくてもよい」。悲しみに沈んだマリヤを喜びに変えた「マリヤよ」というのは十字架以前の親しんだ呼び方、マリヤにとって特別な「先生の声」でした。「私の羊は私の声に聞き従う。私は彼らを知っており、彼らは私について来る。」(ヨハネ10:27.28)真の羊飼いが私達を呼ぶ声が、死の嘆きを乗り越え新しいいのちの道へと進ませて下さるのです。よみがえられた主イエス・キリストこそが、私達を祝福するためにいのちへ導かれるお方です。