4月22日 メッセージ要約

「イエスが立っておられた」(ヨハネ福音書21:1?14)
復活のイエスが12弟子の前に姿を現された時、弟子達はイエスが本当に救い主なのだと信じ、キリストをあがめました。マリヤの前に現れた時も、トマスの前に現れた時も「イエスが立っておられた」とヨハネの福音書では記されています。いずれも彼らの信仰告白へ導かれる機会としてキリストは顕現されました。しかし弟子達が主の栄光を宣べ伝える器に変わったのはしばらく後の話です。復活の主を見て、神様の御業は素晴らしい、それに引き換えイエスを裏切った自分達の弱さ・汚なさ・至らなさは‥と自身に失望し、元の漁師の暮らしに戻りつつありました。よみがえられたイエスは墓を出られたのに、弟子達は深い罪の咎めに悩み、十字架という出来事の傷跡から立ち直れないでいたのです。そのような弟子達のためにイエスは再び姿を現されました。まるで墓の中に取り残されたように動けないでいる彼らを置き去りにせず、弟子達の歩みに合わせて会いに行かれたのです。「私はあなたがたを遣わす」イエスが彼らに与えた使命と権威には、自分達はふさわしくない、と考えたでしょう。「私は罪深い者です」と言うペテロに、以前イエスは「恐れることはない、あなたは人間をとる漁師になるのだ」とおっしゃいました。イエスを知らないと三度も否んだ、欠けだらけの自分をふがいなく思うペテロに最初の志を思い起こさせ、信じて命を与えられた喜びに立ち返らせようとされました。ペテロの資質や能力によってその働き・責務を果たすのではなく、「聖霊を受け」主がそれを成して下さるのだとおっしゃったのです。またイエスご自身が食事のご用意をされたのは、誰もが「私はこの場にふさわしくない」と咎めを感じていた弟子達に、イエスの方から親しく招かれたのです。食事を共にするというのは、「あなたは友だ、家族だ、大切な人だ」と示し確認する行為です。共に食事をすることで弟子達は、自分はイエスに赦され受け入れられていると安堵し、平安を得たのです。