「イエスのあわれみ」(ルカ福音書7:11?17)
イエスと弟子たちはナインという町に入ろうとしていました。一方では一人息子に死なれた母親とその一行が、葬りのため棺とともに町の外へ出ようとしていました。情が深い人々がどれだけたくさん寄り添ってくれたとしても、人間には死という問題は解決できません。しかしイエスが「泣かなくてもよい」「若者よ。さあ起きなさい」と声をかけられると死んだはずの息子は生き返り、葬りに向かっていた人々は方向転換し、町へと戻って行ったのです。死からいのちへと変えられた奇蹟が、涙にぬれ悲しんでいる人々を、喜びをもって神を賛美する姿に変えられたのです。人々は「神が顧みてくださったのだ」と言いました。「顧みる」と訳された言葉には「お世話する、心を配る、訪れる」というような意味があります。ルカ1:78でのザカリヤの賛美にも使われている言葉です。人々は旧約聖書でエリヤがやもめの一人息子を生き返らせた奇蹟を思い出し、ここでイエスがなされた御業は神が訪れて関わってくださった、神があわれんでくださったと見たのです。イエスは息子に死なれた母親に深い同情(あわれみ)を寄せられました。(あわれみ)=内臓が引きちぎられるような痛みをともなって彼女の痛みに寄り添われたのです。彼女の悲しみをくみ取った上で「泣かなくてもよい」と話されました。暗闇の死の陰を歩む者に声をかけられ、いのちの光へと引き上げてくださるのがイエス・キリストです。キリストはナインの町に訪れたように私たち一人ひとりの心にも訪れてくださいます。神の御前にその心を注ぎだして流した涙は、ただ地に落ちるだけではありません。イエスはその悲しみに深く同情し、共感し、くみ取った上で「泣かなくてもよい」と声をかけられる方です。その語りかけは死からいのちへ、暗闇から光へ、悲しみ嘆きから喜びへ変えるものなのです。
5月13日 メッセージ要約
- 2018-05-13
- メッセージ2018