9月23日 メッセージ要約

「苦難の問題について」ヨハネ福音書9:1?3
身をすり減らすような苦しみ、悩み、不条理な迫害など、神が善であるなら何故お許しになるのか?聖書はこの問いに具体的な解決策は明示していません。が、聖書はいかに勇気をもって信仰を働かせ忍耐すべきか、苦難とどう向き合うかに対し解答を持っています。苦難や問題に遭い、その人の在り方が問われる時こそ信仰が活かされる場面であることを教えている箇所はたくさんあります。しかし災いを個人の罪に負わせる風潮が根強くある文化圏では、思わぬ災害や苦難がふりかかった人に対し、「それは罪の結果だ」因果応報だ、と考えがちです。なにがしかの罪の結果、自ら苦難に陥ることもありますが、そればかりが原因とは限りません。そのような時の理由づけとして安易に罪を探すことは人も自分も苦しめることになるでしょう。苦難のない平坦な環境を人は望みますが、神は苦難の中で試行錯誤し、学ぶためにそのような状況・環境を許されました。苦難を経なければ分からないことがあるのです。痛みも同様でしょう。痛みを経験することで危険を察知し、避けることや予防することが出来るようになるのです。また自身が体験することで人の痛みに共感することが出来るのです。勇気、忍耐、憐れみ、同情心のような徳性は苦難により培われていくのです。またこれらと異なる苦難があります。自発的に受ける犠牲的苦難(イザヤ53:4,5)です。それはキリストの十字架です。神の愛と義を体現するため苦難を選びとり、御業を成就されました。創世記においてヨセフが幾重にも経験した苦難は、神の「良いことのための計らい」と認めました。私達も神の愛を忘れることなくキリストに習い歩んでいこうではありませんか。苦難や試練はときに神を疑わせ信仰を損なわせる方向を持つものですが、神はその同じ苦難を用いて信仰を強め、神と愛と力を豊かに経験させてくださるのです。