「神の計らい」(出エジプト5:1?6:1)
モーセとアロンはエジプト王に謁見し神のことばを伝えました。するとパロは「主とはいったい何者か」と神のことばを拒否しました。パロ(ファラオ)は太陽神ラ―の子とされ、エジプトの神々の化身として君臨していました。その現人神であるエジプト王が何故ヘブル人の願いに応じなければならないのか、というわけです。「わたしは主が誰であるか知らない」と言ったパロに、後に神はご自身をあきらかにされて行くのですが、その前にモーセが神の言葉を告げたことによってパロの反感を買い、ヘブル人に対する苦役が更に課せられることになりました。モーセにしてみれば、杖を蛇に変える奇蹟を見せられアロンを助け手とし、主ご自身が「わたしが共にいる」と説得されてわざわざエジプトまで来たのに、これが神のご計画ならばスムーズに行って当然という期待が裏切られた形になりました。神が主導で行われるのならば、あらゆる方法をもってパロの心にも働きかけ、この任務を簡単にやり遂げさせてほしいというのがモーセの心情でしょう。しかしむしろパロの心は頑なになり、ヘブル人の状況はもっと苦しくなってモーセは恨まれてしまいました。祈って始めたことなのに出鼻がくじかれ壁にぶつかると、これは正しいことではなかったのかもしれない、と疑問に思うことは多々あります。神は「今に分かる」と告げられました。神のご計画は私達の考える、願う予測とは違う形で進められるので、現時点では分からなくても後にこれが神の御心だったのだと分かる時が来る、というのです。パロはヘブル人を生産性でしか評価せず、エジプトを去らせることは労働力の損失であると考えていました。パロに仕えるために自由に意思を持つことを許さない、人格を認めない歯車として見ていました。私達も人づきあいの中で小さなパロに支配されたり、主ではない物に仕えて心までコントロールされることがあります。イエス様は「私は良い羊飼いです」と言われました。羊を大切に養い育てるように、私達の人格を尊重し配慮され導かれる、それが神と私達との関係性だと話されました。後にエジプトを脱出し神は十戒を授けましたがその中で「安息」を与えられました。仕事を休み体調を整えるだけでなく、普段の生活を断ち切り神と向き合うことで魂の安息を得る、人間性を回復することが目的です。パロは仕事を止めさせることを拒んだ、自分の意に反することは行わせない、それは明確な支配の意思表示です。私達は何に従っているのか、人間性を否定するものに支配されていないか、神からの安息を得ることで確認することができるのです。
6月24日 メッセージ要約
- 2018-06-24
- メッセージ2018