8月26日 メッセージ要約

「失望せず祈るために」(ルカ18:1~8)
やもめと裁判官のたとえ話から学びます。イエス様がこのたとえ話をされた意図は「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ということであり、それがたとえ話の冒頭に記されています。ルカの福音書などのイエス様のたとえ話は、宗教的であることと倫理的でないこと、そのギャップにより印象を取り違えたり、文化的背景を知らなかったりすると現代の私達には意味不明になることがままあります。イエス様は17章後半にて「神の国」、人の子、終末について語っておられます。この世の審判の日が来ることを聞いて不安に感じ動揺する弟子たちと、質問したパリサイ人に向けて、厳しい現実の戦いの中で失望せず信仰に立って祈るべきであることを教えられるためにたとえを用いられたのです。登場人物は裁判官一人と訴える女性が一人。当時、ユダヤ人裁判官は3人制でした。ところがここに出てくるのは1人ですからローマから派遣された裁判官で、1人で判決を下すことの出来る立場にあると推測できます。すると「神を恐れず、人を人とも思わない」という言葉がわかります。支配する側の驕り高ぶり。いかに不正を働いて財産を増やすかに腐心し、裁判によって正義を実現するなどどうでもいい、そのような裁判官です。そこに理不尽な苦しみの中にいる一人の女性がこの裁判官に訴えてきました。毎日、何度も訴えに来ますが有利な判決を下すよう手回す賄賂などはありません。しかし、こう毎度来られたら自分に悪いうわさがたっては面倒が起こる。疑われてローマに更迭なんてことになったら、それこそ大変。面子がつぶれる。この辺で裁判を開いてこのやもめが来ないようにしてしまおう。不正な裁判官でさえこのように一生懸命に訴えてくる人に対して渋々ながらも動こうしたのです。私達を選び、愛してくださる神様はなおさら信じ従おうとする者を捨て置かれません。「私の目にはあなたは効果で尊い。わたしはあなたを愛している(イザ44:3)」信仰の戦いの中を歩まんとする私たちに対し神様は正しい裁きをつけないで放っておくはずがない。私たちは困難にあっても信仰を捨てて滅びる者ではなく信仰に立って命を得る者でありたいと思います。失望せず期待し祈ろうではありませんか。