9月16日 メッセージ要約

「得るために捨てる」(ヨハネ10:17、18)
「イエス・キリストの十字架による贖罪は必要か?」という問いに答える前に、罪責感についてお話ししましょう。私たちは自分のした悪い(道徳・倫理・宗教的に‥)行いのほとんどに罪責感を持ちます。その罪責感は自分以外の存在による「赦し」によってでなければ取り除かれません。大いなる者、権威ある者により「あなたは赦された」と宣言されなければ心の平安は訪れません。悪い行いを帳消しにしてもらい、誰からも責められることのないようにするには償いが必要です。それがキリストの犠牲によってもたらされる十字架です。当時の反イエスの立場の人たちは、イエスは社会を混乱させた偽キリストだと断罪しました。彼の死は神を冒涜した結果の裁きだ、偽善が暴かれてイエスは自分の罪によって殺されたのだと思いました。しかしイエスは明確な意図をもって十字架の道を選ばれました。イエスからいのちを奪ったものはいないのです(ヨハネ10:18)。?罪人に神の尽きぬ愛を示すため、?私達に対する愛ゆえにどんな苦しみをも耐える勇気を示すため、?暴力を拒否し悪に勝利するため。聖書は私達の罪の身代わりのためにキリストは死なれた(?コリ15:3、?ペテ3:18)と伝え、またイエスご自身が十字架で流される血を「罪を赦すために多くの人のために流されるもの」と話されています。ところで全能の神なら他に方法がなかったのか、もっと簡単で犠牲のいらない方法がと疑問に思う方もおられることでしょう。人が集まり共に暮らすところ、その社会のルールに従うことで秩序は保たれます。神に罪を犯すことは律法侵害であり道徳秩序全体を狂わせます。神は全能です。しかし、ご自身のご性質と矛盾することは行われません。どのようにして神は正義にもとることなく罪人を赦すことができるでしょうか。愛を損なうことなく罪人を罰することができるでしょうか。神は罪人を赦し、その罪を罰することができるのでしょうか。ただ一つの解決がイエス・キリストの十字架だったのです。