「死から命へ」ヨハネによる福音書5章24節
死について考える人に永遠のいのちを伝えようとする時、手ごわいのが虚しさ・諦めという悟りです。「仕方がない‥どうしようもない」それなりに状況や環境を受け入れているように見えますが、枯渇した心の中に希望はありません。同じ出来事であってもキリスト者は状況や環境を受け入れる理由が著しく異なります。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」「神はそれを、良いことのための計らい」と信じていますから希望があるのです。誰でもいずれは地上のいのちを終える時が来ます。死をどのように受け止めるのか。絶望か希望か。諦めるか期待するか。聖書は死の向こう側についてどのように教えているでしょうか。天国か地獄かというような言葉も耳にしますが、イエスは神の国という表現で話されています。神の国に入るといっても場所・空間的にはとらえることができません。神の国とは神の支配されているところです。神を信じた人は、神の家族として神の国(天国)の国籍とともに永遠のいのちが与えられます。永遠のいのちも時間軸でとらえられないものです。神と変わることのない関係性を持つことができると考えれば理解に近づくことでしょう。すると「私は天国人として生きています。肉体が朽ちても私と神様の関わりは変わりません」と言えるのです。やがて主イエスの再臨の時、私たちは復活し栄光の身体に変えられ天に引き上げられると書かれています。死から復活までどう過ごしているのか疑問に思われますが、聖書は「眠っている」と表現しています。「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」時間に捕らわれない神の支配に入り、死という眠りについたキリスト者が目を覚ます時が主イエスの再臨、私たちの復活の時です。私たちは復活の希望を抱き、神に期待し、死という現実と向き合い乗り越えていくことが出来るのです。
10月7日 メッセージ要約
- 2018-10-07
- メッセージ2018