10月14日 メッセージ要約

「礼拝者として」ヨハネ福音書4:23、24
現代において礼拝などの儀式にどの様な意味があるのでしょうか。経済が優先的に追求される昨今、心の奥の霊的活動に価値があるのか問われたとき皆さんはどのような答えを用意しておられるでしょうか。人生の目的の一つに、神に礼拝をささげることがあげられます。神はまことに褒め称えられるにふさわしいお方です。私達が神に感謝と喜びをささげる時、人は神に触れられ、語りかけられ教えられ、神の臨在を経験します。神は今も私たちと共にいて下さるという体験です。「祈りを聞いて下さったからお返しに礼拝してあげる」「礼拝したら、信じたらいいことあるらしい」という動機で礼拝するのでは目的が異なります。ご利益追求の信心ではおのずと期待は失望へ変わるでしょう。ではどのように礼拝すべきでしょうか。キリスト者の礼拝には様々な形態があり、これが唯一で正しい形式だと断言はできません。しかし、大切なところは共通しています。自分と向き合い悔い改め、信頼と信仰を持って神を仰ぎ見るのです。その礼拝を通して神との関係性がより深く豊かになるのです。また共に神を礼拝する者は神の家族として、信仰の友としての関係性へ導き入れられるのです。会堂で行う日曜の礼拝式だけが礼拝ではありません。日々の生活の中でも神へ感謝を祈り賛美ささげるならそれは礼拝です。しかし、忙しさや物質的関心、雑念がひとりでの礼拝にブレーキをかけ、霊的関心を覆ってきます。日常の慌ただしさは祈りと賛美を忘れさせ、かき消してしまうほどです。こうした礼拝者の困難を克服するため安息を守る必要があります。神が定められた秩序の中に信仰者の肉体的・精神的・霊性の回復も入れられるのです。慌ただしい日常を中断し、礼拝をささげ、神に向き合う中で私たちは信仰者としてより豊かな者とされるのです。