「異邦人を照らす啓示の光」ルカ2:21?38 慈しみ深くあわれみに富まれる神は罪人を捨て置かれません。「かわいそうに思う」という言葉は聖書の中に幾度か出てきます。その言葉が出てきた時イエスは必ず行動を起こされました。子を亡くした母親をあわれんで子を生き返らせ、福音を宣べ伝えていた折、群衆をかわいそうに思い十二弟子を各地へ派遣しました。またイエスは憐れみに富む父なる神のご性質を、放蕩息子のたとえ話の中で語られました。散財した息子が帰って来るのを遠くから見つけた父親は「かわいそうに」思い走り寄って、彼を抱き口づけし、息子の帰還を無条件に喜んだのです。聖書の「かわいそう」という言葉がどこから派生したかというと「内臓」です。心臓、肺、肝臓‥が震えるような、胸が熱くなる、体の奥底から来る思いなのです。神様は自分の弱さ・至らなさに嘆く者、罪深さにおののきへりくだり悔い改める者の叫び、祈りを聞かれ、胸がしめつけられ、ほっとけないのです。シメオンはローマの圧政にあえぐイスラエルのなぐさめを長年待ち望んでいました。聖霊は彼の祈りにあわれみをもって答え、「主のキリスト」を見るまで決して死なないことを告げられます。8日目のきよめのため父母に抱えられ神殿へ入ってきた幼子イエスを見たシメオンは御霊に示され、神を賛美します。「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」全ての人にとってイエスが救いだと歌っています。滅びに向かう人々をほっとけない神様は、ご自分のひとり子である御子イエス様をこの世に遣わされました。ここに、神の愛と真実が示されたのです。