2月3日 メッセージ要約

2/3淡路聖会 講師:村上密師   礼拝説教「わたしの力は弱さのうちに」 ?コリ12章9節
 私は長年、異端やカルトに入った家族のことで、全国から相談にやって来る方々と問題に取り組んできました。子どもを何とか救いたい、脱会させたい、というご両親の悲痛な叫びが私のエネルギー源となったのです。中にはどんなに話を聞いても分かろうとしない子もいますが、そこでがっかりはしません。むしろその子が福音を聞く機会がたくさん与えられていると喜び、また、何度も会って話をするうちに関係性を築くことができる、とうれしく思うのです。時間をかけ、抵抗した子は親をたくさん悲しませ苦しませますが、神様が救おうとされる者を一時的に頑固にさせたりされるのです。心を開かせるのは神様の業です。頑なで聞く耳を持たないその子自身に目を向けると、とても難しい、もう駄目だと失望してしまいます。しかしこの出会いは神様が引き合わせて下さった、この足りない私を用いて神様が何とかしようとしていらっしゃる、とその子を愛しておられる神様に目を向けると失望しません。発想の仕方を変えましょう。

 もう何十年も娘がカルトに入っている親御さんが、(入信期間が)長くなったからより脱会が困難になったと諦めかけていらっしゃることに対し、「(時間が経てば経つほど)やめる日に向かって近づいている、と考えるのですよ」と言いました。神様が、信じる者を通して働こうとされているのだから、私が信仰を持って関わらなくて誰が信仰を持って関わるのか。そう考えて、大変な難しい問題が起こるたびに、力を与えられています。

 問題が解決するまでどれくらいかかりそうか、と相談者が聞くとき、私は解決までのプロセスが長すぎると失望してしまうのであまり言いません。代わりに、この問題を一緒に解決するために寄り添いながら、時々具体的なアドバイスをして一緒に歩んでいくようにしています。問題を抱えている人にとって、解決が本当に必要なことではないのです。必要なのはアドバイスだけでなく一緒に行動してくれる人、寄り添ってくれる人なのです。解決を求めているけど、色んなことがあった時に耳を傾けてくれる人、助けてくれる人が共にいてくれれば、その問題が解決しなくても生きていこう、やっていこうという気持ちがわいてくるのです。たとえ今の問題が解決したとしても、また新たな問題は起きるものです。その時に気軽に相談できる友、知り合い、牧師がいると支えられるのです。怪我した時や病気の時に、家の薬箱に薬が全くないと不安ですが、薬があるというだけで安心できるように、長い信仰生活の中で悩みや苦しみがある時に、誰か相談できる人が何人かいるというだけで安心材料になるのです。

 困った時のアドバイザーとして牧師がその役割を担いますが、「私の羊を飼いなさい」とイエス様が命じられたのは牧師だけにではなく、教会全体に牧会を委託されたのです。教会(に連なる一人ひとり)が牧会と宣教をし、それをまとめるのが牧師なのです。みんなが牧会に関わっていき、手に負えない時は牧師に委ねればよいのです。お互いに支え合い、一緒に泣いたり笑ったりすることも、大変な状況にある人に声をかけたりすることも牧会の働きです。牧会の中に愛と信頼関係の交流があり、信頼し合う2人もしくは3人の関係性の中に神様がおられ、働かれるわけです。自分ができそうにない相談、悩み事を聞いた時は「この人が語れるように神様が導かれたのだ、私では十分に対応できないけれど足りない私を通して神様が働いて下さい」と祈ればよいのです。自分はできる、と思っている人はつい口も手を出しすぎて、相手が願っていない形に押し付けてしまいがちですが、自分は乏しいと思っている人のほうがほどよい距離を保てるのです。

 健康で元気で仕事もバリバリやっていることが証しになると思いがちですが、私達の弱さ乏しさ(を自覚して関わる時)に神様が働かれる状況が起きるのです。しんどいような相談の中にも、神様の宝が隠されていることがあるのです。大変だな?ということだけに目を向けるのではなく、大変さの中に隠された神様の恵みは、関わっていく者だけが見つけること・あずかることができるのです。関わった者だけが、神様は真実な方だと知る体験ができるのです。神様がそのように働こうとされていることを心に留め、今年も信仰生活を続けましょう。きっと皆様の信仰生涯の上に、神様の業が起こります。