「エルサレム入城」マタイ福音書21:1?11
人間関係において生じる悩みの解決は、人との関わり、つながりによって解決が与えられることがあります。しかし、罪と死についての問題の解決はイエス・キリストの十字架によらなければなりません。世界にはあまたの神々や宗教があり、右に行こうか左に行こうか迷ううちに真理にたどり着けずに生涯を終えてしまうこともあります。私たちが信じている神は世界を造られた方です。この神の御子であるイエス・キリストが救い主であり、罪と死について解決を与えて下さったことを信じるなら、真理について迷うことはありません。しかし、イエスがこの世で働きをされていた当時の人々は、イエスが何者なのか分からず、判断に迷い、イエスを拒む人もいました。説教箇所の当時のエルサレムには100万人以上のユダヤ人が過越しの祭りのために集まっていました。そこにイエスは子ロバに乗って入城されました。群衆はイエスを歓迎しつつも、人々が望むメシヤ像はローマから解放する政治的な王でしたので、少し複雑だったことでしょう。軍事利用された馬でたけだけしく入城するのではなく子ロバに乗られたイエスは平和の王として、柔和な方として来られたのです。ゼカリヤ書9:9の預言の成就です。ここでの柔和というヘブル語は「貧しい、苦しむ、悲惨、へりくだる」という意味もあります。貧しくみじめな姿で苦しみに耐える王が来られる、というのは人々が望む政治的な救世主のイメージには合わないのですが、これこそまさにイザヤが預言している「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:23)メシヤの姿でした。私たちの痛み苦しみを担い、弱さや至らなさを知ってくださる王イエスが救い主(メシア)として来られたのです。
3月24日メッセージ要約
- 2019-03-24
- メッセージ2019