5月19日 メッセージ要約

「助け主を遣わすため」 聖書箇所 ヨハネによる福音書16:7説教者 村上渡師

「私が去って行かなければ、あなたがたの所に助け主は来ないであろう…」イエス様は親しく交わる弟子たちに真実を明らかにし、イエス様が去る意味をはっきりと語られました。私たちが愛する人に、生涯をかけて望みをおいている人に「私は去って行かなければならない」と言われたら、心から動揺することでしょう。
十字架が近づいてきている時、食事の前にイエス様は弟子たちの汚れた足を洗われました。イエス様は弟子たちにその愛をあますことなく全身全霊をもって現わされたのです。弟子たちもイエス様の愛を大いに感じていたことでしょう。だからそのイエス様が「私が去ることはあなたがたにとって益なのです」と言われても、別れがなぜ益なのか、私たちには不思議でしかありません。
イエス様はなぜこの世に来られたのでしょうか?弟子たちに教え、愛し尽くされ、それが目的でも良かったのではないでしょうか。しかしイエス様は預言が成就するために来られました。十字架の贖いを成し、よみがえられ、助け主を遣わすためです。イエス様はこの世に生き続けることを究極の目的とはしていなかったことを覚えていただきたいのです。
聖霊は神の霊です。キリストを明らかにする霊であり、キリストと共に働かれる霊です。三位一体の神です。その聖霊を通して私たちは神を、キリストを深く知ることができるのです。だから私たちに本当に必要なのは物理的に目に見える形でイエス様が存在することではなく、イエス様が約束して下さった聖霊なのです。
聖霊が来られると、どうなるのでしょうか。
? 罪について義について裁きについて世の誤りを正す
誰も自分の力で罪に打ち勝つ人はいません。神と断絶状態にあると気づくことができるのは聖霊の働きです。
? すべての真理に導く 
真理とは何でしょうか。「私が道であり、真理であり、命なのです」
イエス様がどのような方であるのか悟ることができるのは聖霊の働きによるのです。
? 神の栄光を現わされる
 宣教の業とは御霊の業です。なぜイエス様が天に昇ってから2000年間、今も奇蹟が起こり続け、救われる人が起こされ続けているのか、それは御霊が今も働いておられるからです。宣教の火をつけたのは聖霊が降臨したからです。聖霊が注がれ、人々の人生が変えられ、世界中に宣教が広がったのです。
しかしイエス様の権威なくして聖霊が注がれることはなかったのです。ですからイエス様は天の門を開くために、宣教の幕開けのために、この世に来られたのです。
ですから私たちの目的はイエス様をまず信じること、そして聖霊の注ぎを豊かに受けることではないでしょうか。
イエス様は神様です。神の性質とは何でしょうか。全知全能です。イエス様も出会った人の背景の全てをご存知でしたし、ご自分が発せられた言葉がどうなるかも全てご存知でした。イエス様は歴史を全てご存知の上で、助け主を送ると言われたのです。
私たちは自分の目で全てを悟ろう、未来を見ようとしてもそこに神様の御思いはありません。神様が私たちに願っていらっしゃるのは、私たちが主の目線に立ってこれからのことを見ることです。イエス様が見ておられた景色は宣教の幕開け、大収穫の始まりです。ユダヤ人に伝えていた福音が、やがて全世界に広がることを知っておられて聖霊が注がれることを約束されたのです。
新島襄は同志社大学を設立する際、出資を募るため勝海舟の元に訪れました。
依頼された勝海舟は新島の人物を推し量るため、ある質問をしました「あなたの計画する大学が完成するのは、何年かかると考えていますか?」新島の答えはこうでした「200年です」ずいぶん時代が変わった先だと言うのです。自分は当然死んでいるが、新しい世代が活躍している時代を見据えていたのです。
イエス様は何を見ていらっしゃったのでしょうか?新しい時代が来るのを、新しい人々が立ち上がるのを見ていらっしゃったのです。その人々に聖霊が注がれ、神の愛が語られる、大胆に福音の業が行われる時代を見ていらっしゃったのです、その時代とは「今」なのです。
「何事でも私の名によって願うならば、私はそれをかなえてあげよう。」
私たちが神の業を行うために必要なものがあるなら、イエスの御名によって父なる神に願うことは、何でもかなうと主は言っておられます。私たちのために助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう、と言われたその日は「今日」なのです。明日ではありません。過去のものでもありません。イエス様がおっしゃった「その日」は全て「今日」を指しているのです。私達はそのために、主に祈るために「今日」集まっているのです。あなたが信仰によって歩むならば、どんな困難が待ち受けていようと、信仰を失いそうになったとしても、あなたがたが求めるならば主が言われた「その日」は「今日」なのです。
イエス様の言葉は死んでいません。イエス様の言葉は生きているのです。イエス様の言葉は形になるのです。イエス様の言葉は歴史になるのです。
神様の霊が注がれる時、私たちの能力でできないことが出来るようになるのです。
私たちは「福音を伝えて信じてもらう」ことがどんなに困難か、何度も挑戦しては失敗した体験から知っています。しかし人がその罪を認めることができるのは聖霊の働きによるのです。イエス様を救い主と信じることができるのも聖霊の働きによるのです。
いやしの業や、神のあらゆる栄光の業が現わされるのも聖霊の働きによるのです。
「その日」が「今日」来ていると信じて祈ろうではありませんか。
私達はその助け主を「今日」降して下さい、と祈ることができるのです。信仰によって約束された「その日」を、明日ではなく「今日」お迎えしますと祈りましょう。