7月14日 メッセージ要約

 「なにゆえ神様は?」 士師記14章
士師記を読むと違和感を覚えることがあります。私たちが聖書を読む時、それまで培った信仰観や価値観、道徳・倫理から読み解こうとしますが、主に選ばれた者の行動がそれらから外れている時、違和感を覚えるのです。サムソンは御告げによって生まれた子であり、生涯ナジル人として育てられました。ナジル人とは聖別された人の意です。?酒を飲まない?カミソリを頭にあてない?死体に近づかない?汚れた物を食べない等の条件がありますが、きよい人とは言い難いサムソンの行動に私たちの認識は揺さぶられます。サムソンはペリシテ人女性に求婚し、なぞかけに答えたペリシテ人のためにアシケロンの人々30人を打ち殺し着物を奪います。怒りに燃えたサムソンが帰ってみると、妻になる女性は他の男に嫁いでいました。理不尽や不条理が繰り返され、サムソンはペリシテを害し始めます。死体に触れないどころか異邦人を幾人も殺めます。すべて神様がペリシテからイスラエルを救うためのご計画とはいえ、違和感を覚えるのです。他に方法はなかったのかと‥。救済史的歴史観において、神様は主権的支配をもってご自身の計画を進められます。神様のご計画の中には私たちからすると一見不条理や理不尽と思えるような出来事が含まれることを教えられるのがサムソンの物語です。私たちからすると非情に思えるような出来事であっても神様の視点から見るとそこにはまったく異なる風景があるかもしれません。悲しみや苦しみ、怒りという私たちの心を震わす出来事は私たちがその物事を捕らえようと考える時、視野を狭めることがあります。そのような時、神様の視点ではその出来事はどのように映っているのでしょうか。神様のご計画ではこれからどのように展開するのだろうと想像する時、つまり自分の立ち位置から鳥瞰して神様に心を向ける時、私たちの心は変えられるのです。イスラエルの歴史に深く関わられる神様は、私たちの信仰生涯にも深く関わってくださるお方です。どうぞ教えお導きくださいと祈ろうではありませんか。