『喜びのうちに救いの水を』イザヤ12章
救いの井戸とは尽きることのない恵みの源泉を意味します。信仰者はその泉から喜びをもって恵みを汲み取っていくのです。かつて井戸または河川から水を汲み取り運ぶ作業は大変重要な労働でした。旧約では創世記に「水を汲む」作業は頻出します。アブラハム物語の終盤イサクの嫁探しにおいて、僕のエリエゼルがイサクにふさわしい娘を教えて下さいと神に祈り、自分に水を汲み入れ、ラクダ達にも飲ませてくれるよう願うと、その条件を満たす娘リベカが現れました。新約ではヨハネ福音書のサマリヤの女性はイエスから「わたしが与える水を飲む者は誰でも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり永遠のいのちの水がわき出ます」と話され、「その水を私にください」と願いました。最初は水汲みの労働からの解放を期待したかもしれませんが、イエスが与えんとする水とは霊的な真理、救いの喜びのことでした。後にこのサマリヤの女性はイエスを信じ永遠のいのちの源泉を得たのです。人と出会うことを嫌っていた女性は、自ら人々に証しする者と変えられたのです。その恵みは信仰者にとって慰めであり、励ましであり、力になるからです。仮庵の祭りは水取りの儀式です。祭りの最初の日に折り立てた柳の木が、最後の日には水がないためしおれ、その横で主に祈りをささげるのです。水は命そのもの、水がなくなれば枯れてしまう木のように、私達は神の恵みなしでは生きていけない、どうか救ってくださいと祈るのです。その祭りの最後の日、イエスは「だれでも渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」とおっしゃいました。救いの喜びとは私達が努力して汲むものではなく、救い主イエスを信じることで、神様からの賜物として腹の底から湧き上がりあふれてくる、真実なる主を知ることの喜びです。
10月27日 メッセージ要約
- 2019-10-27
- メッセージ2019