11月10日 メッセージ要約

『わが報いはわが神と共にある』イザヤ49章1?13節
42章での「主のしもべ」に期待される働きとして「公義を行う」とありました。それは正しく法(律法)を取り扱うことです。神がイスラエルに律法を与えてられてから歳月を経る間に律法が守られなくなったり、趣旨が曲げられ恣意的に用いられるということがありました。傷んだ葦(カノン=原理・基準)すなわち御教えを回復し成就するために「主のしもべ」たるイエス・キリストは来られたのです(マタイ5:17)。49章で主のしもべ「私」は主なる神によって「鋭利な剣」「研がれた矢」にされたとあります。剣とは御言葉の比喩です。エペソ人への手紙に「御言葉の剣」が出てきますが、突然脈絡なく出てきたのではなく旧約ですでに神の言葉が「鋭利な剣」として用いられていたのです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えやはかりごとを判別することが出来ます(ヘブル4:12)」心の奥深く入り込む力を持った御言葉により養われ、やがて用いられるために主にとどまる(隠される)のです。主に用いられることは感謝なことです。しかし、「いたずらに働き、益なく、むなしい力を費やし」結果が出ない、先が見えない日々が続いたり反対にあうと、疲れを覚え徒労感に心が覆われることがあるでしょう。いつも成功・勝利・前進とは限らない、むしろ後退することもある。それが預言者をはじめ福音に奉仕する者の嘆きです。それでは「主のしもべ」の目的(:6)は何でしょうか。それは?イスラエルの回復、?異邦人の救いです。神の願いはユダヤ人もそうでない人も、全ての人々が救われることです。パウロの世界宣教の根拠の一つはイザヤ書だと話しました。イエス様の登場の700年前に異邦人伝道のことが預言者イザヤを通して語られていたのです。主のしもべとしての働きの中で実りが無いように見えても、この小さな奉仕は決して空しいものではなく神のご計画の中で意味あるものだと知ることが、私たちに与えられる報いです。主を仰ぎ見る中で、信仰を回復し立ち上がることが出来るのです。