『罪咎を担うキリスト』イザヤ53章
「主のしもべ」について学んでまいりましたが、この言葉は預言者やイスラエルを指す他に、救い主キリストのことも表しています。53章ではまず、主のしもべに対する人々の評価が書かれています。神の真理は民衆の常識を越えたものであり、信じる者には恵みであっても、心の目がおおわれた者には到底信じがたいものであるので、主のしもべの言葉を受け入れないというのです。また当時の人々が抱く神に用いられる者としてのイメージ(宗教指導者の姿)からはほど遠いため、「見とれる姿」ではなく「慕うような見栄え」もないと表現しています。むしろ人々は、彼が神から遣わされた者であることを知らず、軽蔑し、無視し、のけ者にするというのです。人々は知りません。彼(キリスト)が自分たちの身代わりとなり、罪の赦しのあがないとなったことを。彼が死んだのは彼自身の罪のためだ、と誰もが考えました。しかし、彼は私たちの罪ゆえに刺し通され、うち砕かれたのです。私たちの病を負い、痛みを担い、弁解もせず身代わりとなって罰を受けたのです。「私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った」罪を犯したら、例外なくあがないが必要となります。神から離れて自分勝手な道を歩んでいった自己中心は罪の本質です。その私たちの全ての過ちを、神はキリストに負わせたのです。あがないを成しとげる過程で苦しみと痛みにゆがんだキリストの姿を見て、人々は神の罰の壮絶さを感じます。その痛みは何ゆえだったのか考えた時、自分の罪の深さにおののき、神のゆるしの大きさに本当の愛を知るのです。そしてキリストの奇蹟によってこの世の価値観をゆさぶる(権力、金、世の成功ではない)本当の勝利、本当の世界の王を知るのです。
11月24日 メッセージ要約
- 2019-11-24
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