1月12日 メッセージ要約

「キリストにある新しい生活」ローマ12章1?8節
ローマ書では「神は不従順をも、恵みを与える機会として用いられる」と驚くような神の知恵の深さを賛美しています。そして神の喜ばれる聖なる供え物として「あなたがたのからだを」ささげることを勧めています。創世記ではアベルが家畜の群れの初子をささげ、神に受け取られました。申命記などによると礼拝行為の中にあがないのいけにえをささげる儀式がありました。神のきよさに対する人の罪深さ、汚れを身代わりとなって血を流すために多くの動物がほふられたのです。旧約における礼拝にはいのちの犠牲が深く関わっています。そしてイエス・キリストがいのちの犠牲となり完全ないけにえとなられたので、もう礼拝の中で血を流さなくても良いのです。キリストによって罪ゆるされ、いのちを与えられた私たちに対し、パウロは「あなたがたは世に流されてはいけない、世の常識や価値観に妥協してはならない、真理に立ち神と共に生きることで、あなたがたの存在を聖なるささげものとしなさい」と言っているのです。「心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい」(2節)とありますが、人格的に完全無欠であれという意味ではありません。ノアやダビデを「全き人」と表現するのは人格的に落ち度がない人、という意味ではありません。人の弱さを私たちと同様に持ち、失敗もしました。しかし神を信頼し、神の言葉に従い、生涯を神と共に歩む中で、神は彼らを信仰において全き者とみなされたのです。私たちもキリスト者として生きることが神に最大のささげものをし、礼拝をしていることなのです。