「イエスの家族」マタイ12章46?50節
「私の父の御心を行う人は、誰でも私の兄弟、姉妹、また母なのだ」とイエスは言われました。パウロの手紙などからうかがえる「御心」とは、信徒からの視点で「祈り、とりなし、感謝する」ことでした。イエスの語る「神の御心」は父の視点、御子の視点です。神の目的は「人々の救い」です。この箇所に入る前に、律法学者やパリサイ派とイエスとの間でベルゼブル論争がありました。彼らにとって、イエスの行いと教えは驚異的なものでした。目が見えないが見えるようになり、足がなえて立てない人が歩けるようになり、悪霊が追い出されるといった力ある業に対して、イエスが何の権威によってその教えといやしを行っているのかを「悪霊の頭ベルゼブルによるのだ」と悪口を言ったのです。また数々のメシアのしるしを見ながらも、もっとすごい事をやって見せろと言うので、イエスはあきれて「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしの他には与えられない」と語られました。病をいやし、嵐をしずめ、5000人以上の人々の給食など、福音書には書ききれない程の奇蹟を行われましたが、救い主としての究極の奇蹟が十字架による死の3日後の復活だと言われたのです。イエスの兄弟たちは、イエスが祭司たち、律法学者やパリサイ人たちと争えば、自分たち家族がとばっちりを受けると思い、地元から離れてくれとイエスに話に行きました。そこでイエスは彼ら兄弟の思いと、イエスに反対する人々とのやりとりを踏まえ、「私の父の御心を行う人は誰でも私の家族なのだ」罪を自覚し、天の父のあわれみを受け取り、御子による救いを信じる人々こそが祝福を受ける、神の家族なのだと語られたのです。
2月9日メッセージ要約
- 2020-02-09
- メッセージ2020