2月16日 メッセージ要約

『求めなさい』 聖書箇所 マタイによる福音書7章7?12節
  説教者 東 裕雅 師 (アッセンブリー伏見キリスト教会)

●日本人は仏教的な考え方がしみついています。ある方は「私はクリスチャンになったのに、いまだに煩悩から解放されていない」とおっしゃいました。出家された方からは「牧師になるには、さぞ修行を積まれたのでしょうね」と言われますが、クリスチャンには特別な修行など必要ありません。罪人であるけれど、救われています。仏教の価値観では、キリスト教ははかれません。イエス様は「求めなさい」と言われましたが、「?がしたい、?がほしい」などの意欲がなければ求めることはできません。やる気のない子どもに勉強を教えることは大変です。「?したい、?になりたい」気持ちがない子を動かすのは至難の業です。ペテロは欲のかたまりのように見えますが、弟子達の中ではペテロが一番やる気があったのでイエス様は用いられたのです。やる気の根幹にあるのが欲だとするなら、それをイエス様が最初に引き出されるために「求めなさい」とおっしゃったのです。クリスチャンはあれもしたい、これもしたいとどんどんチャレンジしていく中で成長していくと思うのです。

●「その子が魚を求めるのに、魚の代わりにへびを与えるだろうか」(ルカ11:11)
自分の子どもが求めた時に、害のある物を与える親がいるだろうか?しかし“神様は本当にいいお方、私のことを愛してくださっている”という確信がないと、「きっといつか神様は罰を与えられるのではないか、私が罪人であると思い知らせようとされるのでは」と不安がぬぐえない人がいる。神様が怖い方だと恐れていたら、自分なんかが求めても素直に与えてもらえると思えない。神様は求めた以上の良い物を与えて下さる方、全面的にまかせても良いお方だと信頼していないと、信仰がぶれて「信じるだけでは救われないんじゃないか?」と、神との関係がおかしくなってしまう。うまくいかなかったと思うことの積み重ねの人生で、時にはつらい目にあったとしても、神様は最期に必ず天国へ連れて行ってくださる、逆転ホームランの人生を約束してくださるのです。人生でどんなにひどい目にあったとしても、神様はいっぱい祝福を与えて待っていてくださるのです。必ず主は、私たちの願う以上に良いものをくださるのだ、と信じて信じても、毎日の生活はつらいんです。それでも、この先必ずいいことがあると信じ続けて生きているんです。「苦しみにあったことは私には幸いでした、それは主のおきてを学ぶことができました」もし、ひどい目にあわなかったら、しんどい目にあわなければ私たちは神様を知ることはなかった。でもその苦しみと痛みを受け止めて何とかしなきゃと思った時に、救いがあることを知ったではありませんか。そして、ああこんなお方がいるんだと知り、神の愛と恵みに照らされて生かされて私は今ここにいる、これほどの恵みはないんです。
主はよい牧者です。時にはむちや杖で打たれることもあるが、それは子どもが道を誤った時であり、崖から落ちたりしないために、子どもの幸せを願って叱責をするのです。子どもはその時には気づかずに逆らうこともあるが、親に感謝するようになるのです。

●ソロモンの願いは神様の御心にかなった。(列王記) “正しい訴えを聞き分ける判断力”それは王として、神のしもべとして一番必要なものでした。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」神の義が成し遂げられる国を実現するために、ソロモンが神に求めたものは百点満点の答えでした。だから神様は喜んで「あなたの願わなかったものも与えよう」と、知恵と巨万の富と名声も神はソロモンに与えられたのです。
皆さんの立場で、御心にかなう「神の義」とは何ですか?それを私たちが求めるならば、神様はそれを与えてくださるのです。長寿、財産、敵の命、そういったものは御利益宗教でも求められるものですが、ソロモンの答えが神様を感動させたのはそれが「神の義」であったからです。皆さんが何を願うか、何を求めるかで、皆さんの人生は変わっていくのです。

●マルコ福音書10:46?目の見えないバルティマイをいやす
目の見えない人を前に「私に何をしてほしいのですか」とイエス様は聞かれたことに、私たちは違和感をおぼえるが、「その人の願いは、目が見えるようにしてほしいに決まっている」というのが思い込みかもしれない。その人はこうして欲しいだろうな、とおせっかいから推測して勝手にやってあげることもあるけれど、「本当にその人が欲しい物が何なのか」本人に聞いてみないと分からない。何が欲しいのか、何をしてもらいたいのか、自分でも「これが足りない、これが出来ない」ことを認めないと、求めることができない。自分に足りないものを恥とせず、自分を正しく理解していないと、自分に欠けているものが分からない、それを素直に「ください」と求められるのは恵みであり、祝福であるのです。
バルティマイは自分で「目が見えるようにしてほしい」と言いましたが、信者の中には「かわりに祈っといて」と人に頼む人もいます。でも社会でも自分の要求、願いを通したいと思ったら自ら出て行って声を上げないといけない、揶揄されたりネットでたたかれたりしながらも、欲しいものを得るためにはリスクを伴わないと手に入れられないのです。
日本人は「あきらめ」「諦観」が美徳とされることもあります。もし苦しくて大変ならあきらめたらいい、と助言されることもあります。私たちが人生の肝心なところで色々な人にたずねても、たいがい「あきらめたらいい」と言われがちです。聖書の教えでは「あきらめなさい」とは言いません。しかしバルティマイは大声をあげて、あきらめず叫び続けました。
私たちはもう今の状態で満足ですか?淡路教会は立派な会堂もあるし、もう何も求めなくてもいいでしょうか?この町に福音が伝えられ、この淡路の地が神様に喜ばれる地になってほしい、祝福され、救われる魂が起こってほしいと願ったのは上野先生だけではないのです。以前、私がここに来た時は柴田先生から「会堂建築をしたいが何をどうしたらいいか分からないから、メッセージしに来て」と言われ、ここに来て一年か一年半経った後、会堂が建ってしまった。皆さんはそんなすごい神の業が起こったことを知っている証人なのです。神様は淡路の教会を使って、私たちを使ってもっともっとやりたいことがあるのです。でも神様の業がなされるのは、皆さんが動かないとできないのです。皆さんが神様の手であり足であるのです。神様は「私と同じ重荷を背負い、私と同じ喜びを味わってほしい」と願ったから、神様が必要としていらっしゃるから、皆さんを今、淡路に集めていらっしゃるのです。