3月1日 メッセージ要約

「みこころを行うために来た」ヨハネ6章22?40節
神の「みこころ」について学び続けています。先週の説教では新約聖書で「みこころ」と訳される言葉はいくつかあって、それぞれに【神の救済計画、神のご意思、神の望み、神に喜ばれること 】などの意味があることを学びました。読みなれた聖書箇所であっても、「みこころ」に関する知識が深まってから再読すると、これまでと違う印象を持たれるのではないでしょうか?よく権威主義的な牧師や教会、カルト組織では「それは御心ではない」「上の者に従うことが御心だ」等、恣意的に用います。「みこころ」は大切な言葉です。私たちがどう理解し用いるのか、知れば知るほど軽々しく口にするべきではないことは分かります。今回の聖書箇所に頻出の「みこころ」のギリシャ語はセレーマ〈神のご意思〉です。イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。その発言の背景には五千人以上の人への給食の奇蹟があります。人々は自分たちの寝食を満たしてくれる政治的メシヤを期待してイエスの元に押しかけたのです。イエスの真の目的に無理解なまま、真理に関する飢え渇きよりも、腹を満たしてもらうために従っている者も大勢いました。そこで彼らが「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」とたずねると、「神が遣わされた方を信じること」それが神に喜ばれることだと答えられました。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだ」父なる神のご意思を行うために御子は来られました、一人も失うことなく救い、永遠のいのちを得させるため、それが「私をお遣わしになった方の御心」なのです。