「父のみこころ」マタイ18章1?14節
この中で誰が一番偉いのか。何をどのようにすれば神様は評価してくださるのか。神の国での席次を上げるための方法はあるのか。それが弟子たちの関心事でした。共感できないこともないのですが、彼らが神の御心から外れたところで血眼になっていることも分かります。そうではない、発想が違う。イエスは幼子を真ん中に立たせ話されました「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」徳や実績で神の国に入れるのではない。神の国に入れられるのは、御前に何も誇ることが出来ない子供のような者だ。自分にはその資格が無いと気づくことが出来た者が、神の恵みをいただくことが出来るのだと。そもそも人は競争社会の中で常に比較され続け、経験則から世の原理を基準とし、人を(自分をも)測りがちです。信仰が強いか弱いか、その基準さえ人であるゆえに間違えることがあるのです。人との関わりにおける相対評価ではなく、神との関わりにおける絶対評価が基いとなるべきです。神は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛し」てくださっているのです。幼子は“資格の無い者”、誰かに守られ助けられなければ生きていけない弱い存在の象徴として話されたのです。迷い出て見失った羊はその愚かさ故に滅んでしまっても自業自得なのでしょうか。真の羊飼いはそれを見捨てません。見つかるまで探し、見つかったら大喜びするでしょう。神の御心は人々の救いです。世の人に小さき者と見下され軽んじられたとしても、その者が滅び行くことは神の御心ではないのです。
3月15日 メッセージ要約
- 2020-03-15
- メッセージ2020