「悲しみ悩みの末に」マタイ福音書26章36?46節
進学、就職、異動…春は生活の変化を伴います。それが喜ばしい出来事であったとしても、今までの生活を変えることが知らず知らずの内にストレスとなることがあります。そういった精神的負荷につぶされないためには、過ごす場所や生活様式が変わっても継続する「習慣」が心の安定を保ってくれます。イエス様は祈ることを習慣としていました。どんな場所にいても、周りを取り巻く人が変わろうと、イエス様はいつも一人で神様と向き合う時間を作られました。捕らえられる前、弟子たちは眠ってしまっている間もイエス様は祈りました。ゲッセマネの園はオリーブ油の精油所の意味ですが、そこで血のしたたりのような汗を落としながら、悲しみ悩みのあまり死ぬほどの気持ちをふりしぼるようにして、神様に祈られました。イエスが十字架で死に、命をもって人々の罪をあがなう犠牲が必要であることが「神の御心(神の望み)」であることもご存じでした。それでも、罪のない者が罪を背負うこと、霊的な死によって神と断絶することへの苦痛は耐えがたく、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られました。旧約で「杯を飲む」という言葉は、その人に定められたこと(所有)を受け入れることを表したり、神の怒り(審判)の比喩で用いられたりします。イエスは二度目には「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか御心(神の意志)が行われますように」と祈られました。「わたしの望むようにではなく」人々の救いのために御子を世に遣わされた方の御心が行われますように、と祈られたのです。
3月29日 メッセージ要約
- 2020-03-29
- メッセージ2020