4月26日 メッセージ要約

「平安がありますように」ルカ24章33?49節
コロナ感染対策は各国の指導者の対応により明暗が分かれています。日本でも自粛要請に応答するか否か、与えられた自由と負うべき責任の中で、各自がどう動くのかが取りざたされています。どのような判断が個人にも共同体にとっても有益なのか、各人が置かれた状況はそれぞれなので判断が難しいのですが、自らが審判者のように他者を断罪するような振る舞いは避けたいところです。イエスの十字架の際、受難予告に「死までお供します」と宣言しておきながら3度イエスを否認したペテロは、復活したイエスに厳しく叱責されたかというとそうではなく、福音を伝える者として立ち上がるため何度も働きかけられ、後に初代教会のリーダーとされました。復活し弟子たちの前に現れたイエスは「シャローム:神の平安があるように」と挨拶されました。実体のない幽霊だ、と驚き恐れる弟子たちに「足を見なさい、手に触れてみなさい」と触れされ、共に飲食もしてみせました。私たちの肉体は疲れ、病気になり、やがて死ぬのですが、復活の朝には朽ちない体へ、栄光の姿へ変えられるのです。福音を聞いてどう応答するか、信じるか信じないかは各自の自由ですが、復活のイエスは人が信じて救われるために積極的に関わり、永遠のいのちの希望と、信仰を与えてくださるお方です。復活の主は決して理想的な信仰者、模範的な人間の前に現れたわけではありません。弱い女性たちに、絶望していたクレオパに、疑い深いトマスに、クリスチャンを迫害していたパウロに現れ、彼らを信じる者と変えて行かれたのです。