10月25日 メッセージ要約

「顔を合わせて知られた者」 申命記34章
信仰の偉人に対する聖書の評価に「主が共におられた」「神と共に歩んだ」「ダビデの道を歩んだ」などがあります。モーセは「主が顔と顔を合わせた者」とあり、神と人との関わりにおける最も親しい関係性が表現されています。そのモーセもついに人生の旅路が終わる時を迎えます。「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」私たちが何を見、どこを見ているかによって歩むべき方向性が定まります。120歳になったモーセの目が「衰えなかった」のは、まさに彼の目は見るべきものを見ていた、つまり神の永遠のご計画を見ていたからだと言えます。もし私たちの目が神の御旨の永遠性を見ていないとしたら、やがて体力や気力が衰えていくように信仰も希望もやせ細るかもしれません。人の限られたいのちの時間からでは、神のなさる業を俯瞰(ふかん)することはできません。どんなに熟慮しようとしても限界があります。しかしモーセは、神のご計画の完成を待ち望む希望、約束の地がイスラエルに与えられることを信仰の目によって見続けていたのです。ときにモーセは癇癪を起しました(※エジプト人殺害、石板を叩き壊す、メリバでは杖で岩を二度叩き水を出した)。人には長所・短所があり失敗もするけれど、聖書はモーセに対し最大限好意的であり、神もそんな彼を受け入れています。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」ように、主イエスは私たちにその慈しみ深いまなざしのまま御言葉で語りかけてくださいます。