「放蕩息子」ルカ15章11?32節
取税人や罪人たちがイエスの元に集まるのを見て批判した律法学者たちに対し、イエスは失ったものが見つかると大きな喜びがあるという3つのたとえ話をします。これは律法主義者からすると3つの「ありえない話」です。1匹の愚かな羊の為に何故99匹を置いて行くのか。1枚失くした銀貨が見つかったところで他人に喜ぶことがあるのか。放蕩息子にしても相続財産の生前贈与を子から言い出すなどもってのほか、石打ものです。にもかかわらず父親は財産を分け与えました。考えられないことです。しかも金を持った息子は一族の義務も果たさずに出て行きました。噴飯ものです。挙げ句、親不孝な息子は全財産使い果たして貧窮の極みに陥ります。そんな自業自得の息子が帰って来たところで、受け入れるわけにはいきまさん。ところが父親は喜んで迎え、祝宴をはるというから呆れます。兄息子の怒りは当然でしょう。以上、律法主義者からすれば最初から最後まであり得ない愚かな親子の話なのです。しかし、父なる神の視点からすると死んでいたと思っていた息子が帰って来た大きな喜びがあるのです。父は親愛の情を注いで兄をなだめ続けますが、兄は父のその心を知ろうとしません。父の悲しみはここにもあります。兄も父の心からも離れているから「死んでいる」ような者なのです。弟は父のもとに帰りました(ヘブル表現では「帰る」は「悔い改める」の意)。「人の子は失われた者を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)父なる神の心を知るイエスは、道を失った者や神の心から離れ死んだままの者を救うため、来られたのです。
2月28日 メッセージ要約
- 2021-02-28
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