3月7日 メッセージ要約

「イエスの目的」ルカ19章1?10節
放蕩息子のたとえ話は、自分を正しいとする律法学者やパリサイ派の人々からするとありえない話でした。兄は今まで父親のために真面目に家に尽くしてきたのに、自分勝手に生きた弟が同じように父親の息子として受け入れられることが耐え難かったように、律法を何よりも大切に守り神様に従ってきたという自負がある彼らは、律法では罪人とされる人々が「何もしていないのに」神様にゆるされるなんて考えられないことでした。取税人と交流することもパリサイ人たちにとってありえない話です。ローマから税の取り立てを請負う取税人は、ユダヤ人からすると異邦人の手下、売国奴、強奪者と悪口を言われ嫌われていたのです。ザアカイの名の意味は「きよい人」です。両親や祖父母の思いが込められた名前ですが、その期待から外れた生き方をしていました。しかし「罪人」と言われる人々も、好んで共同体からさげすまれるような道を選んだわけではなく、命の糧を得るために職業の選択肢がない環境の中で、そのようにしか生きられなかった人もいます。しかしユダヤ社会から断たれた罪人は、神様の祝福の外側にいると考えられていました。そんなザアカイがイエスの姿を見たいと日頃からずっと願っていましたが、身体的な不利があっても職業的に人々の協力を得られず、いちじくの木の上に一人のぼっていました。そんなザアカイにイエスは名前を呼び「急いで降りて来なさい、今夜はあなたの家に泊まるから」と声をかけられました。大勢の人の面前で罪人に向かって親しげに話しかけるなど、ましてや取税人と食事をしその家に泊まるなど、律法学者たちにはありえない行動ですが、ザアカイ当人にとっても信じられないようなことでした。感激したザアカイは全財産を失ってでもイエスについて行こうと喜びました。どんな罪人でも、神様の救いの計画に入れられているのです。