「誰が一番偉いだろうか」ルカ22:24?34
放蕩息子、ぶどう園の悪い農夫などのたとえ話に出てくる父親と主人は愚直なまでの人の良さを感じますが、「十字架のことばは、滅び行く者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(?コリント1:18)驚くほど寛容な神の愛を教えられました。これまでイエスは反対する人々を意識し話していましたが、最後の晩餐においては弟子たちに対し、聖餐の制定、新しい契約、裏切り者の予告など大切なことを話されました。弟子たちは疑心暗鬼になり仲間内で裁きあい議論し、やがて妬みや競争心により「誰が一番偉いのか」言い争いは激しさを増していきます。イエスとの最後の夜に最もふさわしくない争いです。神の国の建設において弟子たちの中で誰が一番報われるのか。(※ユダがイエスを見限った原因の一つに、共にいても自分の願っていた将来展望が果たせそうになく、望んだ報いがないことがあげられるでしょう。)小さな社会における競争は人の目に、または自分の目にどう映るかという事にこだわり、比較による価値観に呪縛され、真の自由を奪われているようです。神の国について、救い主について誤解したままの争いは不毛で無益です。福音は誰かとの比較ではなく、神の絶対的な愛(イザヤ43:4)が価値基準なのです。イエスは弟子たちに「あなたがたは異邦の王のようであってはならない」と優しく諭します。そして「指導する人は仕える者のようになりなさい」と教えられるのです。イエスの十字架と復活、聖霊の注ぎと導きによりこの世の相対的な競争社会の倫理観・価値観から自由にされないと福音は理解しにくいものなのです。この世の優劣に関係なく、信じる者全てに等しく与えられるから神の恵みは尊い、だから人にではなく神に栄光が帰されるべきなのです。
3月21日 メッセージ要約
- 2021-03-21
- メッセージ2021