12月5日 メッセージ要約

「慈しみと猜疑」マタイ2章1?12節
まなざしは見る者と対象となる相手や物との関係によって、またどのような考えや思いで見つめるかにより、その意味は変わってきます。信頼と愛情をこめて親を見つめる無垢な赤ちゃんに注ぐのは慈しみに満ちたまなざしであろうし、狩る者が獲物に狙いを定めるのは険しい視線となります。この聖書箇所では星の出現=新しい王の誕生の予告に対する二つの受け取り方が書かれています。東方の博士たち(占い師や魔術師的な意味がある。数学、天文学、歴史などに通じる博学な者と考えられる)と、ヘロデ大王の反応の違いです。博士たちは星の出現が本当に王の誕生のしるしか確かめてみたいという知的好奇心もあったかもしれませんが、贈り物を携えて遠方からはるばる伏し拝みに来たといいます。ヘロデは「それを聞いて不安を抱いた」「恐れまどった」「うろたえた」とあります。ヘロデは先祖がエドム人でありながらイスラエルを治めるしたたかな政治家です。自分の血縁を殺してでも立場を守り、権謀の限りを尽くしてその地位にいる猜疑心のかたまりのような人物ですから、「新しい王の出現」に動揺し、ユダヤの言い伝えでは王はどこに生まれると言っているのか、と祭司長や律法学者たちに問いただします。彼らは「ユダのベツレヘムです」と即答しますが、エルサレムからわずか8?ほどの場所であるにも関わらず、ヘロデのまなざしを恐れて預言が成就したのか確認に行くことはありませんでした。結局、王の中の王、イスラエルが何百年も待ち望んだ神の遣わされた救い主、イエスの誕生を喜び、拝みに来たのは異邦人の博士たちと羊飼いたちだけでした。天の父の権威に従うか、この世の権威に従うか。慈しみとあわれみに満ちたまなざしか、猜疑と威圧のまなざしか、どちらを受けて歩むか選ぶのは私たちの自由意志によります。インマヌエルの王は、この世で嫌われている人々もえり好みしない、心の直ぐな者と共にいて下さる方です。