4月17日 メッセージ要約

「彼らは復活を理解していなかった」ヨハネ20:1?10
十字架からおろされたイエスの遺体は、アリマタヤのヨセフとニコデモによって葬られました。没薬など死体防腐剤をほどこして亜麻布で巻き、墓に納めました。その日の夕方からユダヤ人は安息日に入るため、ゆっくりとお別れの儀式ができなかった女性たちは安息日が明けると、自分たちなりのとむらいをしようと準備していた香料を持って朝早くから墓に行きました。しかしイエスの遺体がなかったので、ペテロとヨハネに知らせました。二人の弟子は墓をのぞき、遺体がなく亜麻布だけが置かれている不自然な状況を見ました。誰かが遺体を辱めようと運んだにしても、香料でべたべたした遺体だけを取り出して盗むのはあり得ないことです。ヨハネは「そして見て、信じた。(しかし)彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」と記しています。イエスは生前「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」とはっきり予告されていました。マタイ16章(21節)、17章(22.23節)、20章(18.19節)と三度も死と復活を予告していましたが、弟子たちは聞いてはいたが、その重大さを理解していませんでした。神のご計画の中で、救い主の絶対の条件は、人の罪の身代わりに十字架で死に、復活することです。それは旧約聖書のいたる所で預言されていることです。イエスの言葉を聞いて「主がそうおっしゃるなら信じます、でも何故?」と納得できない、その時は分からないことも、復活のイエスと出会い、信仰の経験を積み重ね、聖霊を受けて心の目が開かれて、後からふりかえって「こういうことだったのか」と理解できるのです。「知っていたらあの時ああしていたのに」と後悔することはよくありますが、それは後から理解が追いついて思うことです。イエスがこの世に来られた目的は、罪人を救い、永遠のいのちを与えるためです。それを「私のためだったのだ」と理解できた時、人生が変わるのです。復活された主を信じて、感謝と喜びの生涯があることを知ることができますように。