「神の言葉によって」ペテロ?3章1?7節
ペテロの手紙ではキリスト者の忍耐と苦難と希望が書かれ、それに対して敬虔な生き方をすすめています。聖書を学んでも学んでも大切なことを覚えきれない、恵まれることは分かっていても時間がない、そんな自分自身に足りなさを覚える、と忸怩(じくじ)たるものを抱くクリスチャンもいます。どうすればよいのでしょうか?私たち一人ひとりが通った信仰の道のりの中で、血となり肉となったみことば、恵みの経験を思い起こし、みがくことです。「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました(詩篇119:71)」御言葉は不思議なものです。信じなければ分からない、体験できないことがあります。反対に、信じることで御言葉がこの身に成るという体験をすることができるのです。ガリラヤ湖上で嵐の中、イエスさまだけを見続けていればペテロは歩き続けることができたのです。風を見て怖くなり、嵐に心を奪われてイエスさまから目を離したから、信じられなくなったのでおぼれかけたのです。「来なさい」と命じられた主の御言葉がこの身になる、と信じて主の御元まで歩み続けましょう。私たちは今現在の自分の歩みと世界だけを見つめて、世を動かそうとする人たちの思惑、意図的に操作された情報に揺り動かされやすいものです。大切なもの・神の国と神の義を見失ってしまうと、与えられた恵みと自由をも失ってしまいます。聖書は「終わりの時」から現在を見つめる視点も与えています。やがて来る時、そこへ向けて今自分はどのようなふるまいをするのか、神の前にも人の前にも恥じない生き方ができるよう、御言葉に親しみましょう。
7月10日 メッセージ要約
- 2022-07-10
- メッセージ2022