今日の箇所は「望み」がテーマとなっています。神と救い主イエスの望みとは、一人でも滅びることをよしとせず全ての人が悔い改めに至ることです。信仰者の望みとは「主の日(キリストの再臨)」の到来、正義の住む新しい天と新しい地、すなわち神の国の実現です。不法がはびこり罪にまみれた世に心を痛める者にとって、主が約束された神の日が一刻も早く来てほしいと思います。しかしペテロは「主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と述べます。ユダヤ人にとって神は時間という概念にとらわれない方だと知っているのです(詩篇90:4)。人は時間、重力、物理的なものに制約される存在ですが、神のご性質はそれらに縛られず、人間が越えられない三次元の内でも外でも存在しておられる方です。懐疑的な人、主の日を待ちきれない人は「本当に神がいるのなら現在の苦しい状況から何故救わないのか、再臨なんて作り話だ」と神から見放されたと感じ、失望します。人は本当に大変な時に助けてもらうと、生涯忘れない恩義、信頼関係を結ぶことができます。しかし神の思いは、私たちが考える「時」タイミングとは違うことがあります。殉教した者、苦役を課された信仰者たちが何故助けられなかったのかと私たちは目を向けますが、迫害の中でも希望を見失うことなく敬けんに生きたクリスチャンを見て周りの人が信仰に入る、一粒の麦となって地に落ちてもやがてたくさんの実をもたらす、神のご計画があるのです。神の日には大災害、大きな戦争があると言われます。それは明日かもしれないし、数百年後かもしれません。私たちはその日をおびえて待つのか、まだ先だと忘れて楽しく生きるのか。「目を覚ましていなさい」マタイでは花婿の到来に備えてともしびの油を用意した賢い娘と愚かな娘の結末が分かれた例話があります。「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」私はまだまだこんなに至らない者なのに、と怯えることはありません、「私たちの主の忍耐は救いである」罪を赦された恵みに感謝し、祈りを絶やすことなく信仰生活を守りましょう。