「主の御手が差し伸べられ」列王紀上18:41?46
「天からの火で応えられた神」に民衆は信仰の目を覚まし「主こそ神です」と告白します。偶像は人間の都合がいいように造り出した物ですが、それに向かっていくら呼ばわっても、何の答えもなく顧みられることもありません。人間を造られた神は生きておられ、「応えてくださる」お方です。「応えられる」とは「何でも願うようになる」と言う意味ではありません。親は子どもの最善を考え、導こうとします。また願う側も、何でも思い通りにさせようとするのは神を従わせようとする高慢です。祝福(恵みと赦し)は与えられるものであって、対価の報酬ではありません。バアル預言者450人はまどわす者として捕らえられ、ことごとく殺されました。頼みにしていたバアル預言者たちは殺戮され、エリヤの圧倒的な大勝利、偶像礼拝のむなしさに気づいて心をひるがえした民衆たち、混乱を招いた指導者として我が身の危険も感じるアハブ王でしたが、エリヤは意外な声かけをします「上って行って飲み食いしなさい。雨の音がするから」そもそもこの騒動の発端は、偶像礼拝に対する神の裁きである干ばつが三年続いたことでした。国中が飢饉の中にありましたが、その干ばつを終わらせるというのです。善人にも悪人にも神は等しく雨を降らせます。アハブ王は素直に山に登り飲み食いします。エリヤが祈り続けると、手ほどの雲が彼方に見えてきました「大雨に閉じ込められないように、ここから逃げなさい」とアハブ王に忠告します。この時もためらわずエリヤの言葉に従い、カルメル山を下り大雨の難を逃れ宮殿に帰還します。アハブ王は晩年悔い改めることもありましたが自分の欲望に忠実で、神に従う善王にはなれませんでした。しかし神のイスラエルに対する憐れみは消えず、迷いの多い、迷惑なアハブ王にも助けの手を差し伸べ、守られました。「主の手が下り」主の力が働く時、未来が切り拓かれいのちの希望が与えられるのです。