「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている」は、しばしば集会などのキャッチフレーズとして用いられています。あるいは信仰生活における個人的な主の約束(預言)として用いられることもあります。「新しい事」とは「荒野に水をわき出させ、砂漠に川を流す」という、常識では考えられない事です。出エジプトの時、モーセが率いる神の民は紅海の水の中にできた道を通り抜けることができました。荒野から約束の地に入る時にも、ヨシュアが率いる神の民はヨルダン川の中にできた道を渡ることができました。主は歴史の舞台の中で驚くべきすばらしい御業を現わされました。しかし、そのような過去の出来事を「思い出すな」「考えるな」と命じます。そして、以前のことをはるかに越える「わたしがする新しい事」を「知る・悟る」ように諭しているのです。その時、野の獣、ジャッカルやだちょうも神をあがめる。足のなえた者は鹿のように跳びはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。「わたしの栄誉を宣べ伝えるため」主は御業をなされるのです。神の国において水は、「神の言葉」「いのち」「真理」「喜び」「主の霊」とも関係するきわめて重要な語彙です。水こそ全ての生き物を(人も動物も植物も)生かすいのちの源だからです。やがて訪れる千年王国では「渇き」がありません。なぜなら生ける「水」が豊かにあるからです。(黙示録22:1)。「いのちの水の川」とは聖霊の象徴とも言えます。その「水」を飲むことのできる人は幸いです。それゆえ「渇いている者はみな、水を求めて出て来い」)(イザヤ55:1)と呼びかけているのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)と言われるこの祝福は、旧約で既に繰り返し語られていたことだったのです。