4月9日 メッセージ要約

「主はよみがえられた」マタイ28:1?10
人は過去の出来事をどう解釈するかを変えることが出来ます。その人が今何を大切にしているかで受け取り方・見方が変わるからです。マタイは福音書で出来事を淡々と記していますが、復活のイエスとの出会いという特別な出来事は、女性たちの強い驚きと喜びの証言により記されたのです。十字架でイエスが亡くなったのを大勢の人が見届けた後、イエスに敵対する宗教指導者たちも憎しみと怒りでイエスの言動を記憶していたのか、弟子たちがイエス復活を演出しないように墓の前に番兵を置くようピラトに要請します。人の思惑でよみがえりを演出するならば、イエスの肉体を墓に閉じ込めておけば「死者の中からよみがえった」と民衆に言いふらされることを阻止できたかもしれません。しかし三日目の朝、大きな地震が起こり主の御使いが墓をふさぐ石を転がし、イエスの遺体はなくなっていました。見張りの兵たちは恐ろしさのあまり死人のようになったとあります。復活は神の業であった、人間がどんな力で阻もうとしても、神のご計画が成ったのです。そこに立ち会った女性たちに御使いが「あなた方の探している方はここにはおられません、よみがえられたのです。(弟子たちはイエスと)ガリラヤで会える」と告知し、女性たちが恐れながらも喜んで仲間に伝えに行く前に、復活のイエスにお目見えしました。弟子たちはそれを聞いて、初めは「こうあってほしいという願望のあまり、幻を見たのではないか」と疑います。人は、自分が聞きたいように他人の話を聞きます。だからイエスが語られた内容で自分に関心のないことは忘れ、意志に反することは耳に入ったとしても記憶から抜け落ちるのです。「わたしは捕まり殺されるが、三日目によみがえり、あなた方より先にガリラヤに行って会うであろう」と生前イエスは何度も話されますが、弟子たちは「私たちが裏切るとか、先生が死ぬとかそんなこと聞きたくない」と思い、そう話されていたこともすっかり忘れていました。神の言葉を思い起こさせて下さるのが聖霊の働きです。それを信じることができる(真理へと導かれる)のも聖霊の助けによるものです。復活したイエスに実際に出会った弟子の中でも「疑う者もいた」とあります。生きたイエスをこの目で見ることができなくても、主を信じて歩む中でイエスの教えを思い起こし、本当に主が共に歩んで下さるという個人的な経験を積み重ねて行く中で、イエスと人格的な関わり・交わりを持ち、豊かな人生へと変えられていくのです。