4月16日 メッセージ要約

4/16「それは誰のおしえか」マタイ28:11?20
「人は目的をもって聞きたいように聞き、見たいように見る」 思想・信条、宗教や良心により物事は色々な見方が出来ます。また先立って得ている情報により先入観から物事を一面でしかとらえられないということも生じるでしょう。イエスが三日後によみがえると予告されたことを、弟子たちは思い出すことが出来ませんでした。しかし反イエスグループの首領たる宗教指導者たちの方がイエスのよみがえりについての言動を覚えており、それを阻止すべく墓に番兵を置いたのです。しかしイエスは復活され、百戦錬磨のローマ兵が不思議な出来事を前に死人のように動けなかったのです。今日の箇所では、墓の番兵が祭司長たちに一部始終を報告すると、神の御業を恐れるどころか、それも想定内かのように番兵たちをお金で懐柔します。「地震も御使いもなかった。イエスの死体は弟子たちが盗んだ、と言え」本当のことを報告してもイエスの遺体が無くなったから職務怠慢で処罰される、祭司長たちに従うなら総督ピラトへ執り成してくれるようだしお金ももらえる、それならこっちが賢いだろうと教えられたように報告します。死してもなお影響を与え続けるナザレのイエスの力をどのように封じ込めるか政治的な戦いがあったわけです。戦いと言っても一方的な攻撃・圧力はキリスト教がローマ帝国の国教になるまで約300年続くのです。福音が広がっていく歴史は迫害の歴史でもあります。迫害され殺され、肉体は滅ぼされるとも、なお信じる人々が起こされてイエスの教えが伝えられて行きます。人の様々な思惑をこえたところでイエス・キリストを信じる人が起こされるのです。死人の復活はあるのでしょうか。少数でもよみがえる人がいるなら復活は奇蹟でもなんでもありません。普通の人間が死んでよみがえることはありえない、だからイエスのよみがえりは神が人類の歴史に介入された奇蹟なのです。人にはあがなうことが到底できない罪を赦すために十字架と復活という神の御業が行われたのです。空っぽの墓を見て、人の手で目くらましが行われているのだと疑うか、イエスの復活は神の奇蹟と信じるか。イエスの言葉を信じるのなら、よみがえりは予定されたものであり旧約の時代から預言された神の言葉の成就なのです。