「柔和と謙遜」マタイ5:5、6
「柔和」は、とげとげしい所のないものやわらかで穏やかな態度です。「謙遜」は、控えめなつつましい態度のことです。悪意をもって批判的に用いる人は「優しいけど頼りない」「柔弱で主体性がない」のような意味を加えているかもしれません。はたして柔和な人とは、争いを恐れひたすら平穏無事だけを願う人なのでしょうか。聖書的な意味では苦しみや貧しさの中で神のみに頼らざるを得ない事を知り、神の意思にゆだね隣人に対しても怒りや傲慢な思いを抱かないで生きる態度のことを示します。神は謙遜な人を喜ばれ、へりくだる者を高くして下さるお方です。力づくで人を押しのけながらやっていく方法は、目に見えて結果がすぐ出るかもしれませんがその小さな成功は高慢さを増長させ、神の御心にかなう態度ではありません。与えること、譲ることのできる人に神は多くのものを任せられ、良き管理者として用いられます。イエスは「柔和な人は幸いです。その人達は地を受け継ぐであろう」と話されました。旧約で柔和な人というと出エジプト指導者のモーセです。「モーセはこの地上の誰よりも謙遜(柔和)な人であった」(民数12:3)と記されています。シナイ山でイスラエルの民の堕落を見たモーセは、神から賜った石板をたたきつけて粉々にしたり、メリバの水の件で感情的になったり、短気なエピソードが悪目立ちしがちですが、共におられる神にゆだね死ぬまで従っていたモーセを聖書では「柔和(謙遜)」と評価しているのです。神との正しい関係がなければ、的外れな生き方になり人生を豊かにすることはできません。問題から生じる悩みや憂さを忘れるために、趣味や嗜好品に走り、一時的に心の痛みを忘れたとしても真の解決には至りません。私たちの霊的な病を治癒するには、神の御心から離れている現実と向き合わなければなりません。神も人も無視した生き方から、神と深い交わりを持つ信仰の道へ改める。柔和さはそこから与えられる賜物です。