「巻物を食べよ」エゼキエル2:1?3:3
エゼキエルはユダ王国末期に祭司の家系に生まれ、第一回バビロン捕囚にあいエルサレムから遠く離れた地で活躍した預言者です。エルサレムへ中央集権化したダビデ・ソロモンの時代から約450年、何事もなければエゼキエルも30歳になれば祭司職に着きエルサレムで活躍したことでしょう。しかしエゼキエルが25歳の時、バビロンの攻撃によりエルサレムは陥落、やがて神殿も破壊され、王と有力者たちはバビロンに連行され監視下に置かれるのです。信仰の拠点である神殿から遠く離され、当たり前と思われていた祭司の日常・未来は失われました。遠い異教徒の地で何が出来るのか、神は私たちを見捨てられたのか。エゼキエルはケバル川のほとりで祈りをささげていた所、神の幻、語りかけがあったのです。神は彼に祭司としての未来ではなく預言者としての働きを与えられ、彼の人生の目的を示されたのです。神との関係性は場所に制限されません。異国の川のほとりでも、生きる神の臨在に触れ感動を覚えるのです。彼に課された働きとは、神のことばを語り続けることです。対象は「反逆の家:イスラエル、ユダヤ」の人々です。話を聞かない、理解しない。受け入れられないことは最初から分かっていても、現実にそのような態度を取られると心折れるものです。いばら、あざみ、さそりに例えられる困難ですが、恐れず行きなさい、「巻物を食べよ」と神は言われます。その巻物には哀歌とうめきと嘆きが記されていました。人間の罪の現実を鋭く突いた言葉や人の汚さ、弱さが記されていたのでしょう。人生の苦味、辛味、酸味が詰まっていそうです。しかしそれを口にすると(信仰によって受け止めるならば)「蜜のように口に甘かった」というのです。くり返し「巻物を食べよ」と言われるのは、神の御言葉である聖書を、かみくだいて体内に取り入れるように自身の(霊性の)血肉とせよ、ということです。それは甘い蜜のように活力を与え、豊かな信仰へと変えさせて下さるのです。